日韓司教交流会 広島教区で開催 戦後80年「傷跡と希望」を共有 新たな支援も

 韓国と日本の司教は11月18日から20日まで広島教区(白浜満司教)に集い、「戦後80年の傷跡と希望 ~若い世代に平和をつなぐために」をテーマに学び合い、親交を深めた。
 27回目となる今回の日韓司教交流会には、韓国から17司教、日本から16司教が参加した。
 広島教区内の朝鮮学校や平和記念資料館について学び、2027年のワールドユースデー(WYD/世界青年の日)ソウル大会の準備の進捗(しんちょく)状況について共有した。
 韓国司教団は最終日、山口県・長生(ちょうせい)炭鉱の水没事故(1942年)で犠牲となった朝鮮半島出身者と日本人の遺骨収集を支援すると発表した。

 朝鮮学校の人々の「痛み」

 集いは広島市内のホテルで始まり、日本カトリック司教協議会副会長の梅村昌弘司教(横浜教区)は、今回やむなく欠席となった同協議会会長の菊地功枢機卿(東京教区)に代わり、あいさつした。日本の司教団が今年8月に62歳の若さで逝去したソウル教区のユ・ギョンチョン補佐司教を心に留めていることを伝えた。

日韓司教交流会の研修会場

 初日はイエズス会の中井淳(じゅん)神父が講師を務め、「日韓カトリック教会の架け橋としての朝鮮学校、在日の人々の痛みによりそうことで見えてくること」について発表した。
 日本と朝鮮半島の歴史について自身の認識が変えられた回心の体験を語り、「日韓の架け橋」になるという夢に向け、共に歩んできた朝鮮学校について分かち合った。

中井淳神父

 中井神父は15年前にイエズス会の旧・下関労働教育センター(山口)に派遣された。その後、米国で和解のための神学を学び、韓国では市民運動に参加。2017年から下関の同センター(現ロクスひよりやま)の所長として、平和のためのさまざまな活動に取り組んでいる。
 下関は、かつて日本が朝鮮半島から連行した人々が到着する日本の玄関口であり、また人々はこの地から、日本各地へ労働力として送るための中継地点だった。そのため今でも朝鮮半島出身者のコミュニティーがあり、朝鮮学校がある。
 朝鮮学校はアジア太平洋戦争(1937~45年)後、さまざまな事情で日本にとどまることになった在日朝鮮人が建てた。日本統治下で制限・禁止されていた朝鮮語を中心に民族教育を立て直し、また日本社会の差別から子どもを守り、学ぶ場を確保することなどを目的とした。朝鮮半島から日本に連れてこられた人のうち9割以上は南側(現韓国)の出身者であり、朝鮮学校で学んでいたのも多くが南側の子どもだった。
 だが後に成立した韓国政府が朝鮮学校を支援しなかったため、朝鮮半島南部の出身者は「捨てられた」という意識を強めた。しかも多くの自治体は、朝鮮学校への補助金を停止した。国が2010年開始の高校無償化制度から朝鮮学校を対象外としたことによって、朝鮮学校の財政が圧迫されたと指摘されている。

 信頼のネットワーク

 そうした中で、朝鮮学校を支えてきたのが北朝鮮だった。朝鮮学校の人々にとって「故郷は韓国、祖国は人民共和国」であり、「南北統一を誰よりも望んでいるのが朝鮮学校の人々」だという。
 毎月、山口県庁に出向き、政府が朝鮮学校への補助金を打ち切ったことは教育権の侵害だと抗議してきた中井神父は、前回の交渉の場でのやりとりも紹介した。抗議に対し、県庁職員が「(朝鮮学校から)日本の学校に移ればいいではないですか」と言うと、朝鮮学校の校長は、こう答えたという。
 「その言葉が80年間、ずっと私たちの心を傷つけてきたことを分かってくれないのですか」
 長年の差別や偏見、教育や存在の否定に対する悲しみ、そして歴史の重みを理解してほしいという願いなど、さまざまな思いが込められた言葉だった。
 中井神父はまた、ある非正規滞在の在日韓国人夫婦との関わりについて語った。韓国への移住を望むその老夫婦を支援することは、当初極めて困難と思われたというが、カトリック東京国際センター(CTIC)や、韓国の教会関係者との連携で移住は実現した。
 中井神父はこの経験から、日韓の教会が「信頼のネットワークでつながることによって、助けられる命がある」と強調した。

 海へと向かうための希望 

 交流会2日目は、広島平和教育研究所のイ・スンフンさんが「外国人が見る平和記念資料館」と題して講演した。イさんは、広島平和記念公園内の資料館で、リニューアル後(東館2017年・本館19年)に展示されなくなった資料を用いて、戦争の実情や展示の在り方を考えるきっかけを提供した。
 司教たちは、広島平和記念公園に近い観音町教会(広島市)を訪れ、韓国司教協議会会長のイ・ヨンフン司教(スウォン教区)主司式により韓国語でミサをささげた。

イ・ヨンフン司教

 イ司教はミサ説教で、「異なる歴史と文化、過去の痛みの傷の中」にある日韓両国の司教団や教会を、船になぞらえて話した。
 教会は、絶えず荒波を乗り越えながら、目的地の港に到着するために造られた。そのため私たちに必要なのは、安全な港に停泊している間に体験する「平和」ではなく、将来、海に漕ぎ出すための「勇気を与えてくれる平和」(希望)だと語った。
 ミサに参加した同教会のソ・ジョンエさん(60)は、韓国から来日して20年。15年前に日本で受洗したが、日本語が不自由なため日本語の聖書を読むのが困難だった。この日、「多くの韓国人司教が訪れ、日本の司教と共にミサを司式する姿に深く感動」したと話した。
 同教会の日本人信徒(57)は、「(韓国語は分からなくても)ミサの中に平和を感じて、涙が止まりませんでした」と語った。

ミサをささげた観音町教会で

 一行は、平和記念公園にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑を訪れた。この慰霊碑は、強制労働等により広島で被爆した同胞の慰霊と、再び原爆の惨事を繰り返さないことを願うために1970年に建てられた。碑の前でチョ・ファンキル大司教(テグ教区)と前田万葉枢機卿(大阪高松教区)が献花し、一同、祈りをささげた。

碑の前で献花し、手を合せて祈る
チョ・ファンキル大司教(写真手前左)と前田万葉枢機卿(同左)

 オク・ヒョンジン大司教(クワンジュ教区)は、広島に連れてこられ、原爆によって命を奪われた2万人以上の人々のために胸を痛め、祈ったという。
 オク大司教はまた、日韓の教会が司祭召命の減少など共通の困難を抱えていることに言及。現在50人以上の韓国人司祭が日本で奉仕しているという交流会の実りに目を向けながら「新たな道を見つける必要がある」と、こう話した。
 「今もなお残る民族感情はありますが、政府同士の対応と信仰に基づく交流の方法は次元が異なります。政府にはできないことを、私たち(教会)にはできるのです」

韓国人原爆犠牲者慰霊碑の前で韓国からの参加者と
語り合う長崎教区の中村倫明大司教(写真左)

 最終日20日は、2027年WYDの準備の進捗状況について、ソウル教区のイ・キュンサン補佐司教が発表した。韓国の青年たちは「霊における会話」の手法で分かち合うなど、シノドスの歩みに倣い、準備を進めている。青年の大使をアジア諸国などに派遣し、WYDへの参加を呼び掛けているという。
 またアジアは宗教が多彩なため、ソウル大会はWYD参加者が「他の宗教を体験する良い機会」になるとイ補佐司教は語り、同大会ではホームステイだけではなく、滞在先の一つに仏教寺院を加えることも検討していると話した。
 WYD参加希望者のビザ取得に関する課題や、外国籍の青年がどのように準備に関わっているかについて、質問があった。

 長生炭鉱での活動を支援する

 全体会の終わりに、韓国司教協議会会長のイ司教は、交流会が始まる前日の17日、日本の司教団と共にオプショナルツアーとして訪れた長生炭鉱に言及した。

犠牲者全員の名前を刻んだ追悼碑の前で、祈りをささげる
白浜満司教(写真中央手前)ら日韓の司教団(11月17日)

 現地では、市民が水没事故の犠牲者の遺骨収集を続けているが、潜水作業やがれき撤去に必要な資金が不足している。そのため韓国司教団として支援を行うことを決めたとイ司教は語り、日本の司教団にも協力を求めた。
 長生炭鉱の水没事故は1942年2月3日に起き、犠牲者183人のうち136人が朝鮮人労働者だった。事故は長く語られずにいたが、91年に住民らが「長生炭鉱の〝水非常〟を歴史に刻む会」(以下「刻む会」)を結成した。会は、海中の坑道から海面に突き出した二つの排気口(ピーヤ)を遺構として保存する取り組みのほか、証言や資料の収集・編さんなどを進めてきた。

2024年9月に見つかった、坑道の入り口(坑口/
写真中央)。写真右奥には二つの排気口(ピーヤ)が見える
水没犠牲者が眠る海の前で二つのピーヤを臨み、
祈りをささげる司教たち。この後、1人ずつ海に献花した

 2024年9月に坑口が見つかり、今年8月、4体の遺骨が発見された。しかし政府は、海中での遺骨収集やがれきの片付けなどを行う「刻む会」からの協力要請に応えていない。
 交流会は広島カテドラル世界平和記念聖堂でのミサで締めくくられた。
 主司式した白浜司教は説教で、日韓司教交流会は痛ましい歴史を見つめ、憎しみや対立を超えて、平和を目指すために始まったもので、その役割を果たしてきたと述べた。さらに、日韓の教会が今後も祈りと交わり、共同の活動を通して、平和へと歩んでいくための「希望の架け橋」となれるよう祈りたいと語った。

韓国の国旗を手に、「アンニョンハセヨ~!」(こんにちは!)と
大きな声で司教団を歓迎する園児らに、笑顔で答える
オク・ヒョンジン大司教(写真奥右)ら(世界平和記念聖堂前で)
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