アッシジの聖フランシスコ(1182~1226年)によって「太陽の賛歌」が作られて、今年で800年を迎えた。太陽や月を兄弟姉妹と呼んだ歌として知られ、前教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』の表題の由来にもなったこの賛歌の作成過程には、聖フランシスコが心身の痛みを経てたどりついた神との関係があった。フランシスコ会日本殉教者管区は10月13日、東京・世田谷区の瀬田教会で記念シンポジウムを開き、約130人がこの賛歌について学んだ。
病、不和、死と向き合い 生まれた賛歌
シンポジウムでは二つの講演が行われた。
小高毅神父(82/フランシスコ会)は、「太陽の賛歌」が3段階にわたって作られた経緯を話した。
この賛歌が生まれた時の様子を、聖フランシスコの弟子が伝記に残していることを小高神父は紹介した。それによると、聖フランシスコは当時、目の病に苦しみ、太陽の光や火の明かりも見られない状態にあった。強い苦痛の中で祈った聖フランシスコは、神からの語りかけを聞く体験をする。翌朝、聖フランシスコは感謝のうちに瞑想(めいそう)した後、兄弟たちの前で被造物をたたえ、その言葉に曲を付けて歌うよう伝えた。これが最初の成り立ちとなる。
その後、当時のアッシジの司教と市長との間に不和が生じると、聖フランシスコはまず自身の罪を深く悔い改め、両者の和解を願って「ゆるし」に関する言葉を書き加えた。それを二人の前で弟子たちに歌わせると、二人は和解したと伝わっている。

さらに聖フランシスコの死期が近づいたころ、死をも「姉妹」と呼ぶ最後の部分が書き加えられていく。
小高神父は「太陽の賛歌」の「すごさ」は、被造物への賛美に加えて「ゆるし」と「死との和解」にまで内容が転換していったところにあるのではないかと語った。
二元論を超えた聖フランシスコの霊性
小西広志神父(63/同会)は、ある修道院でソーラーパネルを設置し、パネルへの悪影響を避けるために松の木を剪定(せんてい)したところ木が枯れてしまった例を話し、何が本当の「エコ」なのか、何が善か悪か分からなくなってしまったと話し始めた。続けて聖フランシスコの霊性は、善か悪か、正しいか誤りかなど、相反する2極で世界を割り切る「二元論」ではなく、むしろそれを超えたものだと話を進めた。
小西神父は、聖フランシスコは単なる環境保護運動家ではなく、回心の人、主に従う人であり、至高の善である神を求め、貧しさに生きた聖人だと指摘。全ての被造物を「善いもの」と認め、命に軽重や善悪の区別を付けず、人々の中、また小鳥たちの中にも「入っていった」人だった。こうした生き方によって聖フランシスコは全ての被造物の兄弟姉妹となっていったと小西神父は見る。
小西神父は、こうした聖フランシスコの精神が、前教皇フランシスコの中に生きていたとも述べ、回勅『ラウダート・シ』やシノドス(世界代表司教会議)に見られる影響を指摘した。
この日は全国からフランシスコ会会員や修道女、在世フランシスコ会(第三会)の会員、その他各地の信徒たちも参加していた。
都内から参加した永井真見さん(22)は、「二元論に陥らず、それを超えたところで行動すること、判断の基準は神に委ねる、というお話が特に心に残りました」と感想を話した。
北海道から参加したフランシスコ会の内藤孝文神父(69)は、「古い時代にフランシスコについて学んできた自分にとっても、分かりやすい話でした。前教皇フランシスコの素晴らしさも改めて感じました」と話していた。
講話の内容は、今後、フランシスコ会によって冊子にまとめられる予定。
