那覇市出身の伊田初枝さん(91/同市・開南教会)は、アジア太平洋戦争(1931~45年)末期の沖縄戦を10歳の時に経験した。住民を巻き込んだ激しい地上戦で、20万人以上が犠牲となった沖縄戦。伊田さんは家族と共に沖縄本島北部の山中の集落で避難生活を送り、集落の全員で米軍に投降して戦後を迎えた。受洗から70年余りになる伊田さんの信仰のルーツは、親に「全てを委ねて」生き抜いた戦争の体験にあるという。

「10・10(じゅう・じゅう)空襲」
伊田さんは、これまで親族以外にほとんど語ってこなかったという自身の戦争体験を次のように話し始めた。
「私が小学校1年生の頃にはもう戦争(アジア太平洋戦争)が始まっていて、内地(九州以北の日本の領土)から兵が来ていました。小学4年になると日本軍が校舎に入ってきたので、授業は公民館でするようになりました」
「沖縄で戦争が始まった」と感じたのは、沖縄戦が始まる約5カ月前、44年10月10日の「10・10(じゅう・じゅう)空襲」の時だったという。焼夷(しょうい)弾によって民間人の居住地域まで攻撃したこの空襲で、200人以上が犠牲になった。那覇市の9割が焼失し、人々は家を焼け出された。
伊田さんは当時、両親、姉とおいとの5人暮らし。空襲が始まると、一家は近所の人と付近の自然壕(ごう/洞窟)に避難し、幸い全員無事だった。米軍の攻撃を逃れるため、一家が向かったのは伊田さんの両親の故郷、沖縄本島北端の国頭(くにがみ)村にある奥(おく)地区だった。4日間、夜通し歩いたという。
道中は、飢えをしのぐために畑からサツマイモなどを取った。戦争に協力していた「国防婦人会」という地域の女性団体から炊き出しの塩むすびを一つもらうと、伊田さんはそれを2~3食分に分けて水と一緒に少しずつ食べたという。「そのにぎり飯のおいしさだけは、忘れられません」
親が持たせてくれた救急袋の中には、黒砂糖とかつお節(塊)が入っていた。だが時々手に入るイモのほか、「かつお節をしゃぶって水を飲むだけで空腹が満たされていたのかどうか…よく覚えていません」
当時の記憶があまり残っていない理由について、伊田さんには一つ思い当たることがあると、こう話す。
「その頃私はまだ神様を知りませんでしたが、親に全てを委ねて行動していたためか、神様から必要なものは十分に与えられているというような信仰的な感覚があった気がします。避難している間も、不思議と今後への不安はありませんでした」
米軍に投降し、戦後へ

(沖縄・国頭〈くにがみ〉郡国頭村/写真提供:山田圭吾)
一家がたどり着いた奥地区の集落は、自然豊かな森が広がる「やんばる」の山中にあった。周囲で米軍が監視を続けていたが、集落には内地から来ていた日本兵が、軍服から着物に着替えて「住民に交じって」生活していたという。住民は、米軍から自分たちの身を守りながら日本兵をかくまってもいたのだ。
大工だった伊田さんの父親は、集落から離れた山の中腹に避難小屋を建て、家族5人で暮らした。「姉とおいが山の下の畑へサツマイモを取りに行く間、私は父と留守番でした。洗濯やトイレは、小屋の前を流れる小川で済ませていましたね」
そんな生活が3カ月ほど続いたある日、奥地区の区長ら三役衆が山を下り、投降に向けて米軍と交渉を始めた。そして8月15日の終戦の日を迎える前、ついに集落の全員で山を下り、米軍への投降を果たした。全員、無事だった。
「私たち(民間人)は日焼けしているのに、内地からの日本兵は色白だったので米軍に日本兵だと分かってしまい、その後どうなったのか…怖かった。私は沖縄戦の前から、親や周りの大人が、『日本兵の前で沖縄の方言を使うと警戒される』『本当は日本が戦争で負けると思っていても、日本兵の前で言ってはいけない』などと話すのを聞いていました。私たちはずっと、そういう(日本兵を恐れる)雰囲気の中にいたんですよ」
実際、日本兵は住民が方言で話す内容を理解できず、住民を警戒した。沖縄戦では住民をスパイとして疑い、殺害もしている。
こうして奥地区の人々が山を下り、沖縄本島最北端の辺戸(へど)岬に出ると、米軍のテントが設営されていた。
人々は米軍から食料等の配給を受けながら、国頭村中心部の辺士名(へんとな)で焼け残っていた民家や家畜小屋で仮住まいを続けた。
ある日、「戦争は終わったようだ」と米兵に告げられ、伊田さんら住民はトラックに乗せられて那覇へ。米軍の攻撃によって荒れ果てた町で、戦後の生活が始まった。
伊田さんにとっての転機は、高校1年生だった51年、学校の近くにあった開南教会へ友人たちと毎日、放課後に通うようになったことだ。「ただ友達と一緒にいられるのが楽しくて、教会で神父様たちにもかわいがってもらって」幸せだった。
同年11月、友人ら十数人と共に受洗。そのうち5人は修道女になり、後年、自身の母、姉、そして父も洗礼に導かれた。
私は「生かされた」
「私は他の沖縄戦体験者と比べて、悲惨な体験はしていないと思います。でも、今でも戦争のことを考えたら涙が出てくる」と、伊田さんは目に涙を浮かべて語り、こう続けた。
「苦しい記憶は時間をかけて薄れていきますが、神様に『生かされた』という実感は、不思議とはっきりしてくるのですね」
伊田さんは最近、母の33回忌を迎えたが、その母を自宅でみとった際、神様に生かされたという実感が特に強くあったと話す。
母は、伊田さんが少しずつ栄養食を飲ませていた時に息を引き取った。沖縄戦のさなか、伊田さんが「全てを委ねた」母。母との関わりは神様に「委ねる」感覚の土台となるものだったが、その母が、最期は神様に「全てを委ねて」自身の腕の中にあった。
「私と共にいてくれる」母への感謝が「お母さん、ありがとう!」という言葉となってあふれ出た瞬間、伊田さんは、こうして母を腕に抱くために「私は生かされた」との思いを深めたという。
「神様のご計画によって、何もかもが喜びに変えられるのですね。生き残った者には、死者のため、生きている人のため、そして全ての人の平和のために祈る務めがあると感じています。それで私はいつも、月や星を見て祈ります。いろいろな人が、苦しみながら同じ月と星を見上げていると思うからです」
