イエスと共に世界を歩く ②さまざまな慰霊の心 映画監督 新田(にった)義貴さんに聞く

 今年の沖縄「慰霊の日」(6月23日)に向け、劇場公開映画『摩文仁 mabuni』(映画紹介は本ニュースサイト「文化」欄に掲載)を制作した新田(にった)義貴さん(55)に聞く3回シリーズ。1回目「みことばが生きている沖縄」に続く2回目は、新田さんが沖縄で出会ったさまざまな慰霊の心について。

 慰霊の地 沖縄・糸満(いとまん)市

 満州事変に始まるアジア太平洋戦争(1931~45年)で国内最大の地上戦が行われた沖縄県では、住民を巻き込んだ苛烈な戦闘が繰り広げられ、軍民合わせて20万人以上が犠牲になった。
 中でも沖縄島南端の糸満市は、沖縄戦(45年)の激戦地となった地域だ。『糸満市史 資料編7 戦時資料上巻』によれば、疎開をせず当時の市域内にとどまった住民13,927人中、戦没者は5,113人で、戦没率は36・7%に及ぶ。戦没率が4割以上と特に高かったのが同市域内の中部から東部にかけての旧高嶺村、旧真壁村、旧摩文仁(まぶに)村で、これらは日米両軍が激しい攻防戦を行った地域、あるいは日本軍が最後まで立てこもった地域だった。
 だが沖縄戦では日米両軍の戦闘による被害とは別に、日本軍によって住民が殺害された事例が多い。糸満市域内各地で住民が日本軍によってガマ(自然洞窟)などの避難場所から追い出されたり、米軍への投降を阻止されたりした事例が数多く証言されている。
 現在、市内の摩文仁の丘には平和祈念公園が広がり、園内には国籍や軍人、民間人の区別なく沖縄戦などで亡くなった全ての戦没者の名を刻んだ「平和之礎(へいわのいしじ)」(1995年6月23日建設)や慰霊塔が数多く立ち並ぶ。

全戦没者の名を刻んだ「平和之礎」の刻銘板
 〝慰霊の心〟と、さまざまな思い

 新田さんは若い頃から摩文仁の丘を訪れるたび、戦争の悲しい歴史を思い起こしながらも、なぜか清らかな気持ちになったという。そして、その理由を自分なりに考えた末に、「人々が死者を悼む〝慰霊の心〟が、この地を浄化しているのではないか」という思いに至った。
 一方、新田さんはNHK沖縄放送局に勤めていた頃、沖縄の「慰霊の日」の式典中継を準備するために摩文仁の丘で数日を過ごす間に、人々の間の分断も目の当たりにしたという。
 そこには犠牲になった県民の遺族だけではなく、自衛隊や米軍の関係者、朝鮮半島出身者など「中継画面に映らない人々」が県内外から訪れていた。彼らは犠牲になった市民、軍人との関係性、立場や思想が互いに異なる人々だ。そこには犠牲者それぞれの思いを想像し、共感して祈る「さまざまな人の思い」があった。
 「人々が平和を願う祈りは、僕らが毎年、中継してきた場面で伝えられるほど単純なものではない」。こう気付いた新田さんがNHKを退職して即、撮影を始めたのが『摩文仁 mabuni』だ。そして12年前、旧摩文仁村の米須(こめす)地区にある慰霊碑「魂魄之塔(こんぱくのとう)」で、本作の主人公となる大屋初子さん(89)と出会う。
 米須は沖縄戦末期、米軍に追い詰められ逃げ場を失った住民と日本軍が、陸海空からの猛攻撃で数多く犠牲となった地区。米須で生まれ育った大家さんは集団自決が起きた壕(ごう)から奇跡的に生き延び、以来、「魂魄之塔」の傍で参拝者に花を売り続けて半世紀以上になる。
 「魂魄之塔」は、敗戦直後、米須地区に移転収容された旧真和志(まわし)村(現在の那覇市)の住民が、周囲に広がっていた無名の遺骨を集めて建てた。現在、塔に合葬(がっそう)された遺骨35,000柱の大半は糸満市摩文仁の国立沖縄戦没者墓苑へ移されているが、この慰霊塔には今も多くの人が祈りに訪れる。那覇教区(ウェイン・バーント司教)が毎年、沖縄「慰霊の日」に行うカトリック平和巡礼では、最後にこの塔の前でバーント司教が平和メッセージを読み上げる。
 次回は、新田さんが世界で〝分断〟が深まりゆくのを感じる中で見つけた希望について。

「魂魄之塔」(写真右奥)の前に集った平和巡礼の参加者たち(2024年6月23日)
  • URLをコピーしました!
目次