昭和初めの奄美大島のカトリック迫害の歴史劇上演

 鹿児島県の奄美大島で今年4月、1930年代に同島で起きたカトリック排撃運動の史実に着想を得て書かれた脚本『泉の聖女 軍の要塞(ようさい)と白亜の殿堂』が、地元の劇団によって上演された。脚本を書いたのは愛知県在住の布藤(ふとう)聡子さん(46/豊橋教会)。布藤さんに執筆の経緯や、劇を通じて伝えたかった思いを聞いた。

 地図とスパイ容疑

 4月12日と13日に上演された作品のあらすじはこうだ。1933(昭和8)年、軍から預かった機密地図を紛失した村の役人を守るために、村長、議員、新聞記者らが画策する場面から始まる。その結果、大島高等女学校のジュリナ神父が地図を盗んだ、という捏造(ねつぞう)記事が新聞に掲載され、女学校は廃校に追い込まれてしまう。
 布藤さんは中学・高校と演劇部に所属。大学でも演劇を学び、会社勤めの傍ら2020年から脚本を書き始めた。今回奄美で上演された本作品は5作品目に当たる。
 布藤さんが今回の作品を書いたきっかけは1冊の本だった。奄美大島出身でカトリック信者の父・吉田廣喜(ひろき)さん(77)が里帰りした時、空港で『聖堂の日の丸 奄美カトリック迫害と天皇教』(宮下正昭著/南方新社刊)を手土産として購入し、布藤さんに手渡した。
 ちょうど脚本の次の題材を探していた布藤さんは、この本を手にした瞬間「次はこれにしよう」と感じたのだという。そして歴史をひもとくというよりは「劇にした時にどういうアプローチができるかという視点で」読み進めていった。本にはさまざまなキリスト教迫害のエピソードが書かれている。その一つが、大島高等女学校というカトリック学校の受難だ。
 当時、島には日本軍の要塞司令部があった。1926年に鹿児島県の大島土木出張所の所長が、同校校長を務めていたカナダ人のカリキスト・ジュリナ神父(日本名・米川基)に要塞司令部の機密地図を売り、二人がスパイ行為を働いたという疑いをかけられる事件が起こる。戦争への準備をしていた軍部は、心理的にも民衆を戦争に駆り立てる必要があった。ジュリナ神父にスパイ容疑をかけることで「外国人神父はスパイ」、ひいては「外国人神父に協力している信徒はスパイとつながっている」というイメージづくりがなされたのだ。
 当時、地元紙だけでなく、全国各紙もこの捏造事件を報道。ジュリナ神父はカナダに一時帰国し、所長は辞職に追い込まれた。やがて島にはカトリック排撃運動が広がり、33年に大島高等女学校は閉校を余儀なくされる。

 迫害の歴史に日の目を当てる

 この本の中に、所長の娘・淑子さんが80歳を前にして語った言葉がある。淑子さんが、かつて軍の要塞があった古仁屋(こにや)近くの国民宿舎に泊まった時、観光用の地図が「ご自由にお取り下さい」と書いて置かれていた。かつて島の悲劇を生んだ「地図」が日常に溶け込んでいる様子を見て、淑子さんは言った。「あーあ、こんな地図でみんな苦労したのにねー、ときょうだいしてため息をつきましたよ」(『聖堂の日の丸 奄美カトリック迫害と天皇教』73ページ)
 布藤さんは、事件当時同校の2年生で、後にカトリックの洗礼を受けた淑子さんのこの言葉が脚本を書く原動力になったと話す。そして「役者陣が生きる、動きのあるところ」を意識した結果、「高校生が通っている学校がなくなる」話をメインにすることに決めた。
 しかし布藤さんには迷いもあった。「迫害の歴史に日の目を当てることが正解かどうか、ずっと悩みました」。そこで自身が所属する豊橋教会(愛知県)主任のピリスプッレ・ジュード神父(オブレート会)に相談したところ背中を押され、脚本を書き始めた。
 「迫害する側には理由があったのかもしれませんが、迫害される側には自分たちがなぜ迫害されるのかが分からなかったと思います。こういうことがあったと令和の時代に伝えなければならないと思いました」

 教会の歴史を伝える

 劇の山場は二つある。
 一つ目は村長が苦悩するシーン。村長は、ジュリナ神父やカトリック教会が、村で教育や福祉に貢献したことも承知している。しかし軍の意向もくみ、村人の暮らしも守らなければならない立場だ。村長は、自分や役人、新聞記者などの「権力」を持った人間の判断一つで村の運命も変わるのだと、苦しい気持ちを吐露する。
 二つ目は、廃校が決まった同校最後の卒業式のシーン。同校2年生で村長の娘が読み上げる送辞の中で、イエス・キリストの教えに触れる。村長の娘は、社会から見放された人々を「私の兄弟」と呼び、彼らは自分にとって家族だと教えてくれたジュリナ神父への感謝を述べる。しかし卒業式に参加した信者ではない村人たちは「宗教の話はするな!」「黙れ!」と怒号を飛ばす。見ている者は胸が痛くなるようなシーンだ。
 今回島で上演したのは地元の「劇団群島」。完成した脚本を持って父・廣喜さんが里帰りした際に、縁あって劇団群島の手に渡った。劇団から上演したいという連絡を受けた時、布藤さんは「彼らにとっては郷土の歴史ですから、愛知よりは奄美の人に(脚本が)受け入れられるのではないかと思いました」。奄美の教会の信者らに聞いたところ、迫害の歴史は信者たちには語り継がれているが、そうでない人たちには知られていないことも知った。
 布藤さんは「今回の上演を、奄美の教会の信徒や神父様が喜んでくれました。迫害の歴史があったことは事実ですから、知ってもらいたいのが信徒の思いです。島外の人(布藤さん)が迫害の歴史を劇にしたことはうれしかったようです」と話す。
 布藤さんは「同じ脚本で(自分の住んでいる)豊橋でも一度は上演したい」と考えている。そして、奄美大島全体の教会の歴史を俯瞰(ふかん)し、伝えることができる資料をまとめたいとも話していた。

左から吉田廣喜(ひろき)さん、布藤(ふとう)聡子さん、ピリスプッレ・ジュード神父(オブレート会)
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