東京・新宿区の高麗博物館で9月28日まで、企画展「なぜ『朝鮮人』が戦犯になったのか 戦後80年を迎えてなお続く植民地主義を問う」が開催されている。アジア太平洋戦争後、戦犯裁判によってBC級戦犯となった朝鮮半島出身者らが体験した苦難の道のりを、写真と文章で展示、解説している。
展示はまず初めに、日本が植民地支配していた朝鮮半島や台湾出身でありながら日本軍の軍属(軍隊に雇用された民間人)として集められた青年たちが、暴力をいとわない「軍人精神」を叩き込まれ、捕虜監視員となる過程が説明されている。建前は「応募」であったものの、役人等が先導したケースも少なくなかったという。
当時の国際社会には、戦争捕虜を人道的に取り扱うことを定めた多国間条約である「ジュネーブ条約」が存在していた。日本は同条約に署名はしていたものの批准しておらず、捕虜を各地で強制的に働かせていた。捕虜監視員たちに、この条約の存在が知らされることはなかった。そのため捕虜監視員たちは、叩き込まれた「軍人精神」によって、命令に従わない捕虜や病気の捕虜を「ビンタ」で働かせることもあった。
展示では、終戦後、捕虜監視員たちの捕虜に対する非人道的行為が戦争犯罪に当たるとされ、朝鮮半島と台湾の出身者321人がBC級戦犯として有罪となったこと、うち23人の朝鮮半島出身者に死刑が執行されていることを伝える。さらには、韓国出身の元戦犯者らのグループ「同進会」の結成、名誉回復や救済、政府の謝罪を求める国家補償等請求訴訟の過程、今なおその活動が続けられていること、などが説明されている。

出会う人一人一人に敬意を払う
同博物館で7月12日、朝鮮半島出身の元BC級戦犯・李鶴来(イ・ハンネ)さんのおいに当たる姜秀一(カン・スイル)さんと、文筆家でイラストレーターの金井真紀さんの対談が行われた。
李さんは17歳で捕虜監視員となり、タイで鉄道建設のために使役された捕虜の監視に当たった。戦後、戦犯裁判で死刑判決を受け、東京の巣鴨プリズンに収容されたが、収容中の1952年に発効されたサンフランシスコ平和条約により日本国籍を失う。減刑後、56年に仮釈放され、日本人医師による支援を受けて、戦犯仲間らと日本国内でタクシー会社を設立した。
李さんのように「日本人」の戦犯として裁かれたにもかかわらず、日本国籍を失って「外国人」となったために日本政府からの補償や援護が受けられなかった人々が結成したのが「同進会」だ。李さんは会のリーダーとして、これらの「不条理」を訴え、長く活動を続けた。しかし、その実りを目にすることはかなわないまま2021年に亡くなった。
金井さんは、李さんの体験した「不条理」に「怒り」を感じた理由をこう話した。
「(事実を)知らなかった自分にも腹が立ちましたが、(日本軍は)ある時は都合よく日本軍属として戦地に送って、(李さんは)罪に問われ、たまたま命は助かったけれど巣鴨プリズンに入れられ、(日本軍は李さんを)完全に日本人として扱っていたくせに、サンフランシスコ平和条約以降は日本国籍じゃないから補償しないなんて。同じ人に対してあり得ないと思いました」
姜さんは、勉強熱心で読書好きだった生前の李さんの姿を振り返った。そしてこれからも日本国籍の有無で、政治が人々をコントロールするのではないかという懸念を示した。
また姜さんは外国人を排除する言論に対しては、「一人一人の心の中にある優越感を満たすために、ヘイト(誹謗〈ひぼう〉中傷)行為が利用されることがあります」と警鐘を鳴らし、「出会う人一人一人に敬意を払うこと、それが一番大事です。敬意がなければ自分も敬意を払われることはありません」と断言した。
同博物館では、9月にも二つの講演会が予定されている。詳細は同館ウェブサイトにて。

ユーモアも交えながら、今の日本社会の排外主義にも触れて語った。