人間の尊厳が守られる医療現場を実現しようと、医師・研究者らが小規模ながら新しい挑戦を始めている。教皇庁生命アカデミー正会員の秋葉悦子さん(富山大学名誉教授)の企画による「生命倫理学・医学人文学研究会」だ。7月19日、金沢医科大学病院(石川県河北郡内灘〈うちなだ〉町)で開催された2回目の研究会には、生命アカデミー若手会員の医師、法学者やIT企業役員など18人が参加した。発表では、人間の尊厳を巡る医療現場の悩みや、国の科学技術政策にも見られる「超人間主義」(トランスヒューマニズム)の問題が共有された。
前教皇からの〝メッセージ〟
秋葉さんは今回の研究会で、今年3月、「世界の終わり? 危機、責任、希望」をテーマに開催された、生命アカデミーの年次大会に触れて発表した。大会に寄せられた前教皇フランシスコの最後の書簡から、〝日本へのメッセージ〟を受け取ったように感じたと秋葉さんは言う。
そのメッセージとは、人類が地球温暖化など生態系全体の危機に直面する中、人間の尊厳を守り抜いていくようにという招き。そして、そのための土台となる普遍的な生命倫理「Universal Bioethics」(ユニバーサル・バイオエシックス)を構築するようにという呼びかけだったと秋葉さんは振り返る。
生命アカデミーの元若手会員で救急医療に携わる医師は、即時の判断を求められる臨床の現場で人間の生命と尊厳を守ろうとする上での悩みを共有した。
鉄道会社で労務・懲罰管理を担当している秋葉さんの教え子(ゼミOB)は、ヒューマンエラーと人間の尊厳について語った。
2019年に開かれた生命アカデミーの年次大会で「医療におけるロボット:日本の経験」をテーマに講演を行った本田康二郎さん(金沢医科大学医療人文学教授)も発表した。
本田さんは生命アカデミーでの講演後、急速に進む人体改造技術の発展を受けて、技術開発と医療倫理の両立は可能かどうかをテーマに研究を続けてきたという。今回の研究会では「新しい尊厳概念と身体保守主義」と題して、世界で広がりつつある「超人間主義」の問題を指摘した。

身体改造で、他者との共感を失う
本田さんによれば、超人間主義とは「人間と機械の境界を抜き去る」ことによって「超知性」「超寿命」「超幸福」の三つを獲得する運動を指すという。
超人間主義では、これまで人間を規定するものとされてきた①肉体(身長、体重、容姿)②知性(IQ、記憶力、計算力)③生殖(高齢出産、遺伝子診断、遺伝子改良)、そして④ライフスタイル(寿命、疾病、老化)といった条件は、科学や技術を用いることによって「超える」ことが可能だと考える。
さらに、人間の知的・身体的・心理的能力を強化し、寿命という限界を撤廃することで、人間を全知全能の神に近づけるべきだと考えるという。
本田さんは超人間主義の歴史について、ギリシャ神話や、ルネサンス期から現代に至るまでの欧州、米国での思想の動向に触れて解説。超人間主義が主張する「自分の体や、認知能力や感情を、改造したり強化したりする権利」(形態的自由)に対する識者の批判と擁護、それぞれの声も取り上げた。
その上で本田さんは、超人間主義によって促進される身体改造の問題について、次のような例を挙げて説明した。
人間は、他者と同じ花を見て「美しいね」と共感し合う。このことからも分かるように、人間は他者と同じ、人間としての条件・制約の下にある身体(目)を持ち、その身体(目)で他者と「同じ世界」(同じ花の姿)を共有するからこそ、互いの間に共感も生まれる。
だが、一人が身体改造によって、目の前の花の姿だけでなく、その花の名称や性質などの情報も同時に視野に映し出される〝目〟を持った場合、どうなるか。そうした〝目〟を持たない他者と同じ花の姿を見ることはできなくなる。つまり、身体改造によって人間は互いに現実を共有し、共感し合うことが難しくなってしまう。その結果、「世界の分断」が起こると考えられる。
本田さんは、身体改造によって「共感が棄損される社会」の問題を立ち止まって考える必要があると指摘する。そして、「我々の尊厳(固有の価値)の基盤を成しているのは、我々の身体である」と考える「身体保守主義」を支持する立場から、「体をもっと大切にしよう」と呼びかけた。
最後に、超人間主義に対する自身の考えをこうまとめた。
「人と人とが関わり合って生きること(統合性)を重視し、身体改造は福祉目的にだけ利用する。テクノロジーを身体に応用する場合には、できる限り生体を傷つけない『非侵襲的』方法によらなければならない」
二つの異なる「生命倫理」
「生命倫理(学)」(バイオエシックス)では人間の生命に関する倫理的な問題を扱うが、西洋の生命倫理には二つの種類があると秋葉さんは指摘する。
一つは、カトリック教会が築いた生命倫理と同じように、「人間(人格)の尊厳」を最も重要な原則とする「人格主義」の生命倫理だ。前提として、人間を他者との関係性によって成り立つ存在(関係的自己/社会的動物)と見る考え方がある。
もう一つは、個人の自己決定権やプライバシー権を最高原則とする米国発祥の「個人主義」の生命倫理。現在、日本で主流となっている生命倫理だ。人間を他者から切り離された、それ自体で完結した存在と捉え、社会を「孤立的自己」の行為の総体と見る考え方が前提にある。
秋葉さんは、「個人主義生命倫理を含む新自由主義思想が、医療現場で様々な混乱を引き起こしている」ことを問題視し、その解決を目指して2019年に研究会の1回目を開催した。
研究会は、人格主義に共鳴する医療従事者や学者と連携し、人間の尊厳を守っていくための学問の普及と、専門家の養成に向けて具体的な道筋を探ることを目的としている。
