ハンセン病資料館でギャラリー展開催中 戦争とハンセン病

 戦後80年に当たり、東京・東村山市の国立ハンセン病資料館1階ギャラリーで8月31日まで、企画展示「戦後80年 戦争とハンセン病」が開催されている。戦争傷病者についての資料を収集・展示しているしょうけい館(東京・千代田区)との共催だ。
 日本では1907年に制定された法律によって、ハンセン病の患者を療養所に隔離する政策が始まった。戦後、治療薬が普及してもその政策は続いた。53年には「らい予防法」が成立し、さらに隔離が継続された。同法が廃止されたのは96年のことだ。
 同ギャラリーでは、戦争がハンセン病療養所にも深く入り込んでいたことや、従軍中にハンセン病にり患し、療養所への入所を余儀なくされた兵士の歩みなどを当時の資料と共に展示。戦争はもとより、病気や障がいを理由とした差別を繰り返さず、人権が尊重される社会の実現への願いを込めて、今回の展示が企画された。

国立ハンセン病資料館ギャラリーで展示に見入る人たち
 戦争は身体を選別する

 同資料館で7月26日に行われたトークイベントでは、吉國元(よしくに・もと)さん(同資料館学芸員)と、半戸文(はんど・あや)さん(しょうけい館学芸員)が、展示資料を基に、戦争の記憶を継承することについて話した。
 そこで話された一人のハンセン病回復者の人生は過酷だ。立花誠一郎さんは20歳で徴兵検査に合格し、陸軍航空隊に配属されるが、1944年にオーストラリア軍の捕虜となる。収容所生活中にハンセン病と診断されて、他の捕虜たちと離され、テントに隔離されてしまう。復員船でも、たった一人倉庫に押し込められて帰国。隔離政策を取っていた日本では、ハンセン病への差別や偏見があった。自分の存在が家族の迷惑になるとの思いから、本名を捨てて「立花誠一郎」と名乗って生きる決断をし、晩年までハンセン病療養所で過ごした。

ハンセン病回復者の立花誠一郎さんが、
オーストラリアの捕虜収容所時代に製作
したトランク。手先の器用な立花さんは
材料を工夫し、12個ものトランクを作った
(しょうけい館蔵)

 吉國さんは今回の展示を通じて、特に若い人たちに知ってほしいことは、という記者の質問にこう答えた。
「(戦時下では人々が)『国の役に立つ身体』と『そうでない身体』に選別されたと思います。その中で自分がどういうふうに扱われていくのか。健康であっても戦争に行って、そこで亡くなることは本当に『名誉』なことだったのか。あるいは病気が原因で『不要な身体』とされて隔離される、しかも『国の役に立たない』とされる過酷さ、それが戦争の痛ましい現実の一つです。果たして戦争は1945年で終わったのか。(沖縄の平和の礎〈いしじ〉に、戦争の犠牲になった沖縄のハンセン病療養所入所者全員の刻銘が実現したのは2006年であることなど)戦争の影響は、戦後も続いていることを若い方にも知っていただきたいと思います」

 8月中、同資料館ではしょうけい館の語り部による立花誠一郎さんの話や、担当学芸員によるギャラリートークが予定されている。詳細は同資料館ウェブサイトで。

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