大阪高松教区の社会活動センター「シナピス」(大阪市)は7月2日から6日、難民申請中の外国出身者らを含む〝多国籍チーム〟で名古屋教区「カリタスのとサポートセンター」(金沢市)の復興支援ボランティア活動に参加し、石川県の輪島市と七尾市で、被災した建物や個人宅で片づけなどを行った。
このチームの内訳は、シナピスの日本人スタッフ2人、日頃の関わりの中でスタッフらが親愛の情を込めて「難民さん」と呼ぶ難民申請中の3人、そして日本人とフィリピン人を両親に持つ大学生の計6人。
活動初日の7月2日は、のとサポートセンターのスタッフとボランティアが毎週、戸別訪問している輪島市空熊(そらくま)町の一軒家(関連記事はこちら)を訪れ、家主の求めに応えて庭の池に橋をかける作業を行った。

個人宅で庭の池に橋を架ける〝多国籍チーム〟のメンバー
その後は、七尾市で活動。同月3日は、一宮教会(愛知県)の司祭、信徒らと共に個人宅で作業を行った。公費解体予定の家屋から出た処分品を13品目に分別・搬出し、その量は軽トラック4台分に及んだ。
翌4日は漁協施設の2階にある宴会場のテーブル、椅子、そして大量の食器を階下に運び、処分。5日は個人宅で片付けを行い、最終日6日は、のとサポートセンターが聖母幼稚園の前で開く「じんのびカフェ」を手伝った。
5日の個人宅での活動について、スタッフの大森雄二さん(60)はこう振り返った。
「高齢の父親が施設から自宅に戻る前にと、(同居する依頼主から)頼まれた片付けの仕事でした。作業を終える時になって初めて、その依頼主は車いすを使う必要があるほどの体のしびれがあることを知ったのです」。被災者宅の片付けや生活再建が進まない背景に、被災者それぞれが抱える〝見えにくい事情〟があることをあらためて痛感したという。
「ボランティアに行きます」と入管に申請
一方、ボランティアに参加した「難民さん」たちにも〝見えにくい事情〟がある。その一つは、仮放免によって一時的に収容を解かれている立場のため、移動できる範囲が居住地の都道府県内と、出頭を命じられた地方出入国在留管理局(旧入国管理局/以下・入管)のある場所までに限られていることだ。
大森さんは言う。「そんな彼らが『能登へボランティアに行きます』と入管に申請した時の気持ちには、きっと晴れがましい、誇らしいものがあったのではないかと思います。実際、申請書を見た入管の担当者は、『ボランティアで能登へ行くのか?!』と感心する様子だったそうです」
大森さんは、能登での体験や出会いの中で成長していく「難民さん」たちの姿にも驚いているが、「彼ら自身も同じ」だと語る。
例えば、イラン出身のMさん(40代)は、民間災害ボランティアセンターに集まった県内外からのボランティアたちと共に活動終了後の分かち合いを行った後、興奮気味にこう話したという。
「私は人前で話すのが苦手。今まで一度もなかったよ。知らない人ばかりの中で自分がスピーチしたなんて、信じられない。(私の)動画、撮ってくれた? 自分の声を聞いてみたいよ」
能登と祖国イランの悲しみは「似ている」
イラン出身のAさん(50代)は、5月末にも5日間スタッフと共に能登でボランティア活動を行い、今回で参加は2度目だった。今回の能登での活動後に本紙が取材を依頼すると、取材はビデオ通話を伴う対面形式ではなく、音声のみの電話で行うことを希望した。難民申請者としての背景があるためだ。
そんなAさんが「再び能登を手伝いたい」と考えたのは、前回の活動の際、昨秋の豪雨で浸水被害に遭った輪島市の民家を訪れたことがきっかけだという。
Aさんは、その家に掲げられていた親族や先祖の写真を見て、「家族の歴史が心に響いた」。そして、破損した危険な家でありながら「ここに住み続けたい」という家主の気持ちに「心を打たれた」のだという。Aさんが話せる日本語は片言で、自分の思いを出会った被災者に直接伝えることはできない。だがAさんは地震多発国の一つである祖国イランで自身が体験した地震被害や戦争による被害を思い起こし、能登にはイランと「似ている」苦しみや悲しみがあると感じた。
言葉での意思疎通を超えて
ボランティア2回目の今回、Aさんが最も心に残ったのは、嬉しさと悲しさとが込み上げた、空熊町での活動だったという。
日本では核家族や独居者が増えているが、祖国イランでは今も「昔の日本と同じ」ように、家族や親族が多世代で一緒に暮らしている。その「一緒にいる」ことの豊かさを知っているAさんは、地震で苦しい日々を過ごしてきたはずの空熊町の高齢女性が、震災から1年半がたった今、「山の中の大きな家に、たった一人で暮らしている」ことを知り、言葉が見つからないほどに「悲しい」と感じた。だがその高齢女性は、Aさんら〝多国籍チーム〟の訪問をおおいに喜び、昼食も大広間の大きなテーブルに「たくさん」用意してくれた。
Aさんは、その歓待の心が「嬉しかった」のと同時に、その女性の日常を思い、「悲しかった」。その「優しい」高齢女性と別れるのが「悲しかった」と、能登での4日間を振り返った。
大森さんは、のとサポートセンターのスタッフから、「行うのは作業であっても、訪問先の方との関わりをこそ大切に」するよう事前に説明を受けていたと語り、こう続けた。
「意思疎通が難しいはずの『難民さん』たちは、そのサポートセンタースタッフの言葉通りに活動していた気がします」
シナピスは、2003年に発足。阪神・淡路大震災が発生した1995年、大阪教区(当時)が開始した教区方針「新生計画」の基本理念である「谷間に置かれた人々の心を生きる教会」として、特に弱い立場に置かれた人々に寄り添い、誰もが人間として大切にされる社会の実現を目指して活動。カリタスジャパン、日本カトリック正義と平和協議会と連携し、人権を守る諸活動、障がい者のサポート、船員司牧、移住者や難民の支援を行っている。
