映画評論家なのに、アジアの作品をえこひいきしている――。日本の映画界で、そう批判めいた評価もなされていた〝巨人〟がいる。独学で映画評論の道を開き、70年にわたる評論家人生で日本映画史を体系化した佐藤忠男(1930~2022年)だ。
 佐藤は後年、ライフワークとしてアジアを旅して現地の映画を発掘、いち早く日本に紹介した功績から、映画評論家として初めて文化功労者に選ばれた第一人者でもある。自身がディレクターに就いた第1回「アジアフォーカス・福岡映画祭」では、韓国映画界を代表する一人で、日本統治時代の朝鮮に生まれたイム・グォンテク監督の作品を選んだ。

 アジアとの映画を介した交流や後進の育成にも力を注ぎ、韓国、フランス、モンゴル、ベトナムなどからも勲章を授与された。
 著作は『日本の映画』(三一書房/1956年)、『アジア映画』(第三文明社/93年)、『世界映画史(上・下)』(同/95~96年)など150冊以上。黒澤明、小津安二郎ら日本映画史上、重要な監督についての評伝・論考も書いている。
 本作品は、佐藤が学長を務めた日本映画学校(現・日本映画大学)で教え子だった寺崎みずほが19年から密着し、〝映画によるアジアの解放〟を夢見た佐藤の人生の旅路を描くドキュメンタリーだ。
 新潟の船具店を営む家に生まれた佐藤は、幼い頃から本の虫で、知識欲や好奇心を読書で育んだ。アジア太平洋戦争(1937~45年)中、旧制中学の受験に失敗。志願して予科練(海軍飛行予科練習生)に入るが半年余りで敗戦を迎え、町工場に勤めた。
 転機は、『春の序曲』などGHQの民主主義啓発映画を見て、カルチャーショックを受けたことだった。
 佐藤は職を転々とし、仕事の合間に読書と映画鑑賞に明け暮れた。新潟の日本電電公社(現NTT)の工場に電気作業員として勤める傍ら、映画雑誌に映画評を投稿。大衆映画に見られる任侠(にんきょう)の心理を考察した論文「任侠について」が哲学者・鶴見俊輔に絶賛され、佐藤はこれを契機に映画評論家としての階段を駆け上がっていく。
 寺崎は在学中、佐藤に対して「無表情で怖い。でもどこかユニーク」という印象を持っていたという。だが卒業から数年後、2019年夏の面会で、妻・久子への深い敬愛を大胆に語るその人柄に引かれて取材を始めた。佐藤の親族、国内外の映画関係者らの声を集めるうち、寺崎の中に、なぜ佐藤はアジアに目を向けたのか、という問いが浮かぶ。
 1万本以上の映画を見てきたであろう佐藤が生前、「世界で一番大好きな映画」と語っていたのは、インド南西端に位置するケーララ州で制作された『魔法使いのおじいさん』(G.アラブインダン監督作)だった。妻の久子と共に出演したラジオ番組でも、この映画が大好きだと嬉々(きき)として語っていた。
 「なぜ、この映画なのか?」。寺崎は心に浮かぶ問いに突き動かされるように、かつて佐藤が旅したケーララ州へ向かう。
 佐藤はこのインド発の作品を見て自分の中に生き生きと息づく「子どもの心」を感じ取り、それを味わい、喜びとしていたという。独学で自らの道を自由に突き進む佐藤の言葉や表情によって、人と人との間にある隔たりを超えようとするものは何か、本当の意味で自由に生きるとはどういうことか、考えさせられる。
 作品は佐藤の最盛期だけでなく、衰えていく晩年の現実も映し出す。自由に生きることの結果は、〝成功〟をもたらすものでもない。誠意を尽くして積み上げた行いが周囲に見限られ、水泡に帰すかのように映ることもある。それでも無心にまき続けた種は、いつか誰かの心の中で芽を出すのではないか。佐藤の歩んだ旅路は、そんないのちのつながり、希望を感じさせてくれるかもしれない。
 11月1日(土)から新宿K’s cinema(ケイズシネマ/東京)ほか全国順次公開。詳細は、配給・グループ現代(メール dist@g-gendai.co.jp)。作品のウェブサイトはこちら。


 
	 
			 
			 
			 
			 
			