年間第28主日 10月12日 ルカ 17・11ー19 懇願と感謝

 韓国語には、「トイレに入る時と出る時は違う」という表現があります。わたしたちが何かを切実に成し遂げようとする時はそれだけを求めて頑張りますが、それを達成した後はその切実さを忘れるという意味です。

 さて、今日の福音は難しくありませんが、祈りについてとても重要なことを教えています。普段わたしたちがささげる祈りの80%以上は懇願の祈りです。わたしたちは皆、完全ではないので、絶えず何かを求め、得ようとするのです。
 今日の福音で、10人の重い皮膚病を患っている人たちが自分たちを清くしてくださるようイエス様に願っていました。ところが、イエス様は彼らを清くする前に、祭司のところに行って体を見せなさいと命じられます。
 これはなんと簡単な指示かと現代のわたしたちには思われますが、実はそうではありませんでした。
 当時、病気は神からの罰と見なされていたため、病人は罪びととして他の人々と交流ができず、共同体の中で暮らすこともできなかったのです。
 ですから、病気が治ってから祭司のところに行って、罪が許されたと確認してもらうのが普通の認識でした。

 ところが、イエス様は皮膚病を患っている人たちに、病気がまだ治っていないのに祭司のところに行って体を見せるように命じられるのです。これは偽証として、むしろ重い罪になるにもかかわらず、10人はイエス様のご指示通りに実行しました。それほど癒やされたいという願いは切実だったのです。
 そして皆清くなりましたが、イエス様に感謝するために戻って来たのは異邦人のサマリア人1人だけでした。この人はイエス様の確実な宣言を頂きます。「あなたの信仰があなたを救った」。

 わたしたちは皆、80%の懇願の祈りによって恵みを頂きますが、20%の感謝の祈りによって救われます。
 恵みは全ての人に与えられますが、救いは全ての人に与えられるとは限りません。
 わたしたちは、自分の求めるものが単に今の幸せや、今の心の平安だけでいいのかと考えるべきです。
 わたしたちを救いに導く「ミサ」が、なぜ「感謝の祭儀」と呼ばれているのか、その意味を深く悟り、感謝する信仰者として生きていければと思います。
(ダニエル・キム・ドンウク〈金桐旭〉神父/韓国殉教福者聖職修道会 カット/高崎紀子)

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