年間第23主日 9月7日(被造物を大切にする世界祈願日) ルカ 14・25ー33 家族を憎むか?

今週の福音でイエスは憎むことを命じておられる。愛することを命じるというのであれば理解もできるが、弟子になろうとする者に向かって「憎め」とおっしゃる。しかも他ならぬ家族を憎めとおっしゃるのだから、勘弁してほしいと誰もが思うのではないか。「もし、誰かがわたしのもとに来るとしても、父、母、…を憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14・26)と語るイエスの言葉には、多くの人が戸惑いを覚えるであろう。
新共同訳聖書で「憎む」と訳されているギリシャ語のミーセオーは辞書を引くと確かに「憎む」という訳が付けられている。従って、大切な事は今日的文脈においてどう理解するかという解釈の問題になる。
まさか、感情としての憎しみを家族に向けよという意味でもあるまいとの予測を立てながら、恐る恐る手元の注解付き聖書を開いてみると、次のように説明されている。ヘブライ語には比較級がないので「より少なく愛する」を言い表すためには、反対語の「憎む」が用いられる。新約聖書の該当箇所でも、こうした表現法が踏襲されていると。つまり、イエスを愛するが故に、家族を少なく愛する意味だとされている。
「家族を少なく愛する」という説明文に多少ひっかかりを覚えながらも、さらに考えを進めていくうち、以前、NHKラジオのアーカイブ番組で聴いたアイヌ語研究者の金田一京助の話を思い出した。金田一は大学生時代にアイヌ語と出合い、卒業後も研究を継続する。その間、結婚も果たすのだが、薄給故、研究生活だけでは家族を養うことができない。そんな矢先、父を亡くす。当時を語る金田一の肉声には鬼気迫るものがあった。
「自分の給料でおいしいご飯の一つもごちそうできなかった。父をも犠牲にしたこの仕事、中途半端で終わるまい」。その後の金田一の活躍は万人の知るところである。
学問でも芸術でも、あるいはその他のどんな道でも、それに打ち込むことで家族を犠牲にする例は古今東西、枚挙にいとまがないであろう。そう考えると宗教だけが、またはキリスト教だけが特別ではないと言えなくもない。従って、あまたの人が避けがたい現実として受容してきたことを、イエスは多少過激な表現でなおかつ先行的に言語化したと解釈できる。「私の後に従いたい者は、家族を憎め」と。
イエスは従う者に覚悟を求めておられる。しかし、家族を憎んだ先にあるのは、実は新しい家族の構築であることもまた忘れてはならない。イエスを中心とした新しい家族の広がりは、すなわち教会の広がりであり、教会の一員になるとは、具体的にはこれまでの関係を新しく規定し直すことなのである。
それ故、イエスの言葉は家族自体の否定ではなく、むしろ新しく神の家族をつくろうというわれわれに向けられた招きなのである。
(熊川幸徳神父/サン・スルピス司祭会 カット/高崎紀子)

  • URLをコピーしました!
目次