本日の福音でお返しができない人として、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」が挙げられています。果たして本当に彼らはお返しができないのでしょうか?
私はこれまでの人生の中で、それなりの数の方々と出会いました。経済的に裕福な人とそうでない人、あるいは健康に恵まれた人とそうでない人、老若男女さまざまです。確かに経済的に恵まれている人から高価なものを頂いたことはありますが、いつもではありません。逆に質素に暮らしている方から思いがけないものを頂いたことも多々あります。
イエス様はこのお話を通して、私たちに何を伝えたかったのでしょうか。私は「見返りを求めないこと」だと思います。私たちは「他人を大切に」と言いながらも、どうしてもそれ以上に自分への見返りが意識からなくなりません。「他者の喜びが私の喜び」でありたいのに、実際はその瞬間に素直に喜べない時もあるのです。
司祭叙階前、研修として1年半ほど、ブラジルへ行かせていただきました。そこでは経済的に恵まれない人との出会いもたくさんありましたが、日本の教会では感じられない生活に圧倒されました。そこには人々の生活の中心に「キリスト教」が充満していました。まさに「貧しい人は幸いである」がそこにありました。
私は甘い物が苦手というか、食べたいとは思わないのですが、このことをブラジル人に話した時、「病気か?」と心配され、「そうでない」と答えると「面白い冗談だ」と大笑いされました。その後、あるご家庭に呼ばれた時に驚きました。冷蔵庫にギリギリ入る特大サイズのケーキがあったのです。
「これ、あなたのために買ってきたから、一緒に食べましょう」と言われ愕然としました。彼らは私が甘い物が大好きだと確信し、少ない稼ぎの中から最大限のもてなしを日本から来た神学生である私にしてくださったのです。そのことに心底感動しました。この体験が司祭職への意欲を高めたことは言うまでもありません。
「人には良い物をあげなさい」
「その人からのお返しは考えてはいけない」
私の祖母が常々口にしていた言葉です。
「与えなさい」「与えなさい」「また、与えなさい」
この姿勢(生き方)は「信仰・希望・愛。この中で最も大いなるものは『愛』である」(一コリント13・13参照)の体現です。物価高や自然災害など心を騒がせるニュースが多い今だからこそ、改めて自分の生き方を見つめ直す時ではないでしょうか?
後先考えず「無性に」与えることができますように。
(山田利彦神父/神言修道会 カット/高崎紀子)
