第1朗読で主の使いへのおもてなしの場面があり、福音朗読ではマルタとマリアもイエス様たちを迎えました。
今日の福音には最後の晩餐(ばんさん)の前に、すでにマルタとマリアがみ言葉と主の食卓に奉仕する者として描かれています。ペトロたち使徒の姿は描かれてはいません。面白いですね(^^)。
イエス様たちは勝手にどんどん人々を連れてきたのではないでしょうか。マルタは忙しくて「主よ、わたしだけが頑張っています」と不満を爆発させます。行事で食事が足りずに慌てることは、よく見られる光景です。
マリアは顔を下げず、イエス様のもとで、じっとその話を聴いていました。「聴いていた」には「言うことを聞く、聞き従う」という意味があります。マリアは「主に従う者の姿」をわたしたちに教えています。ミサで説教をさせていただいている時に、話の中盤から下を向く、時計を確認される姿に気付くとへこみます。説教を最後まで顔を上げて聴き続けることは至難の業のようです( ;∀;)。
マルタは、イエス様が招かれる、苦しみの中で神様を求める人々を一生懸命迎えようと自分をささげ、イエス様と食卓を共にしています。マルタもすごいことをちゃんと選んでいるのです。
ことばの典礼と感謝の典礼はどちらかだけを分けて祝うことはできません。イエス様は「必要なことはただ一つ。これを取り上げてはならない」と命じられています。わたしたちの奉仕はそれぞれであっても、どれも同じように必要な奉仕なのです。
司祭は忙しくて「おはよう」の挨拶も交わせない。日曜日の司祭〝あるある〟です。ましてや一つの教会だけでなく、数カ所の教会を急いで回る司祭に声をかけるのは難しいことです。マルタとマリアの家に使徒たちの姿はありません。使徒たちは村中の人々に声をかけに行っていたのです。「イエス様がみんなに会いたい外」と。
マルタとマリアの家は多くの人々でいっぱいになり、イエス様はうれしい笑顔です。忙しくバタバタしているマルタを、わたしたちのお母さんであるマリア様が優しく手伝われたかもしれません。
ミサは自分だけを満足させるものではなく、イエス様が招く、神様を求める人々への奉仕です。イエス様とみんなとで一緒に喜ぶ、温かい場なのです。この喜びに招かれたことに「ありがとう(神に感謝)」と心から言えていますか?
イエス様は「マリア、よく聴いてくれたね。マルタ、マルタのおかげでみんなと楽しくご飯を頂くことができたよ、今日もおいしかった。二人ともみんなのためにありがとう」と声をかけられたことでしょう。派遣の祝福です(^^)/。
(寺浜亮司神父/福岡教区 カット/高崎紀子)
