年間第15主日 7月13日 善きサマリア人

 今日の福音である「善きサマリア人」の例え話は、教会に限らず、一般社会においても「善きサマリア人の法」という法律があるほどに有名なものです。
 さて、今日の福音をよく読んでみると、似ているようで、ちょっと違う二つの主題でストーリーが展開されます。イエス様と対話している律法学者はこう尋ねます。「わたしの隣人とはだれですか」。すると、イエス様は「善きサマリア人」の例え話を聞かせて「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われます。ここで主題は「隣人とはだれなのか」であると分かります。しかし、この例え話の始まりは「神への愛」と「隣人への愛」という二つの大きなおきてから出発しています。そこから、この話に込められたイエス様のメッセージには、「隣人を愛しなさい」ということに加え、「あなたも行って隣人になりなさい」というもう一つの主題があることが分かります。
 わたしたちが隣人を愛すると言うとき、どうすることが隣人を愛することなのでしょうか。これに答える前に、自分自身の隣人とはだれなのかについてわたしたちはまず考えなければなりません。隣人とはだれなのかを知らない人は隣人を愛することができないからです。そのため律法学者もイエス様に隣人とはだれかと質問したのです。ところが、イエス様は例え話を語りながら、だれが隣人なのかについてではなく、あなたが隣人になりなさいと命じられます。
 今日の福音の中で「隣人」と翻訳されているギリシャ語「プレシオン(πλησιον)」は、元々「身近なもの」を意味する副詞です。つまり、距離感がほぼないことを意味します。そこから新約聖書では「仲間、同僚」などの意味で使われます。つまり、ただ仲がいいこと、親しんでいることを意味するのではなく、実際に身近にいることを意味する言葉です。イエス様が「隣人」とはだれなのかについての質問に直接お答えにならず、むしろサマリア人のようにあなたがたも行って隣人になりなさいと言われた理由は、遠く離れている人々にわたしたちの方から先に近寄っていくことを望んでおられるからです。だれが自分の隣人なのかを考えるのではなく、自ら先にだれかに近寄っていってその人の隣人になるのが神の御心なのです。
 ところで、世の中には別の目的を持って人に近寄る人が多いのですが、善きサマリア人が追い剥ぎに襲われた人に近寄った理由は、ただ憐れに思ったからです。そして自分の持ち物を全てその人のために使い果たしました。
 「隣人を自分のように愛しなさい」というおきてを守るために自分の隣人がだれなのか、どこにいるのかと探すのは神の御心ではありません。今日の福音でイエス様が聞かせてくださった「善きサマリア人」のように、今自分はだれかの隣人になっているのかと自らを省みましょう。わたしたちが苦しんでいるだれかの隣人になること、それが隣人愛の始まりなのです。
(ダニエル・キム・ドンウク〈金桐旭〉神父/韓国殉教福者聖職修道会 カット/高崎紀子)

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