亡き教皇フランシスコが教会に残した大きな遺産の一つは最後に主催したシノドス(世界代表司教会議)であろう。開催期間も異例の長さ(2021~24年)だったが、これまでのシノドスの概念やイメージを第16回通常総会ではすっかり変えてしまった。シノドスを司教の集いという行事から全ての人が参加できるよう段階的に変化させた功績は大きい。実際、シノドス関連の文書には「全ての人が参加する」という表現が繰り返し出てくる。全ての人がこれに参加し、全ての人と共に歩む教会、これが今後、新教皇と共に私たちが目指す教会の姿になっていくのだろう。
ところで、今週の福音ではイエスが72人を任命し派遣する場面が朗読される。これはルカだけが書き記しているもので、他の三つの福音書には記述がない。こうしたルカの特徴を彼が異邦人の出身であり、医者でもあったことと関連付けて説明しようとする専門家もいる。四福音記者のうちマタイとヨハネはイエスの弟子であり、マルコはペトロの通訳だった可能性がある(エウセビオス著『教会史』)。しかし、ルカは生前のイエスを知らなかったことに加え、12使徒グループとの直接的つながりもなかった。ルカは自身の体験も踏まえつつ、宣教の務めは12使徒やその後継者など特別な人間だけが担うのではないことを72人の派遣を通して述べたかったのではないか。
もう少しだけ72という数に関して(写本の違いなどにより70人とする説もあるが)、創世記10章や民数記11章との関連が指摘されている点について言及しておきたい。前者では洪水の後、ノアの息子たちから全人類が誕生したと記されており、その子孫の数が70とされている。また後者ではモーセによって70人の長老が任命され、後にエルダドとメダドが加わって72人になっている。後発の2人もモーセの協力者という立場で選ばれていることには相違ない。これらを踏まえながらルカのテキストを読み直すと、72人の派遣は全ての人に福音を告げ知らせるという世界的視野のものであったと解釈できるし、合わせて、先にも指摘した通り洗礼を受けた全ての人がこれに携わるよう招かれていると受け止めることもできる。イエスは「行きなさい」(ルカ10・3)と強い命令形を用いて72人を派遣しておられるからである。
いずれにしても派遣の命令と同様ここで忘れてはならないのは、もう一つの命令形、「願いなさい」(同10・2)という祈りの求めであろう。「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(同)とイエスは言う。働き手を送ってくださるのは神であり、神だけが収穫の唯一の主なのである。
さて、前述のシノドスに話を戻すと、教皇フランシスコは、あらゆる機会に、祈りのないところにシノドスはないとも語っておられた。祈りこそは教会のあらゆる活動の出発であり源泉であることを亡き教皇への感謝と共に思い起こす日々でありたい。
(熊川幸徳神父/サン・スルピス司祭会 カット/高崎紀子)
