神のいつくしみの主日と呼ばれる復活節第2主日では、ヨハネ福音書から、復活されたキリストが弟子たちに、特に後半ではトマスに特別にその姿を顕現なさる場面が朗読されます。
このトマスとは、どのような人だったのでしょうか。
ヨハネ福音書11章に記されているトマスの言葉を思い出してみましょう。すでにキリスト殺害計画の不穏な空気が漂う中、べタニアのラザロの元に向かわれるキリストに従う弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と励まし鼓舞する言葉をかける姿が描かれています。
おそらくトマスは、周囲の弟子たちの心を察することのできる繊細な心の持ち主、不安な者のそばにいて、一緒に行こう、と励ますことのできる勇気と優しさを持ち合わせている人でした。
その彼が、エルサレムで、大切な師を「知らない」と裏切って逃げ出してしまうという、およそ想像もできなかった自分の弱さに直面しました。
人一倍繊細で深い愛情を持ち合わせた人が、それを自らひどく裏切ってしまった時、その心にどれほど深い傷を受けてしまうことでしょうか。
最初の弟子たちへのキリストの復活顕現の場面にはトマスはいません。ひょっとすると彼は、師を裏切ったという心の痛みに完全にたたきつぶされており、独りでその傷に耐えていたのかもしれません。
実際に彼がキリストの復活のうわさを耳にしたとき口にした「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」という言葉は、「キリストがわたしのような罪深い者の前にもう現れてくださるわけがない、わたしは師のことをこれ以上お慕いする資格がない」という途方もない絶望の気持ちの裏返しだったのかもしれません。
しかし、師はその彼のためだけに特別に現れます。そして「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」とおっしゃいます。この言葉は、「トマス、トマス、あなたがそれほど絶望し、罪の意識に捕らわれ、私との間に距離を置こうとするのなら、私はあなたのためにもう一度十字架の傷を開こう」とおっしゃっているのです。
一度キリストに与えられた魂を、キリストは追いかけてでも取り戻そうとされる。いつくしみの神にささげられた魂は、キリストが何度もその人のために十字架の傷を開こうとされるほどに、最後まで愛され続けます。
問われるのは、私たちがこれほどまでのいつくしみの愛に応えたいと思う信仰の意志なのでしょう。私たちがキリストを裏切っていると感じるとき、トマスのように、自分のそばまで追いかけてきて包み込んでくださるキリストの愛を、私たちも信仰生活の中で感じることができるでしょうか。
(古里慶史郎神父/フランシスコ会 カット=高崎紀子)
