福島第1原発事故後の2013年から被災地で診療を続けてきた精神科医・蟻塚(ありつか)亮二さん(78)は4月5日、福島県会津若松市の「会津放射能情報センター」(日本基督教団若松栄町教会内)で、「東北の歴史の中で考える原発」をテーマに講演した(主催・同センター)。蟻塚さんは、被災地で見いだした多くのトラウマ(心的外傷)と貧困は、東北の歴史にも起因していると指摘する。会場とオンラインで約100人が参加した。
〝はみ出し者〟の文化にいのちを得た
蟻塚さんはまず、自身の〝ルーツ〟である東北への思いと、沖縄戦の体験者や原発被災者のトラウマに向き合ってきた自身の歩みについて話した。
蟻塚さんは福井県に生まれ、青森県弘前市に長く暮らした。
日本軍の兵士だった蟻塚さんの父親は、第2次世界大戦後に中国から復員し、家族と福井で暮らし始めた。だが人との関わりや社会活動を拒む「回避症状」を現すようになり、戦後開拓民となる。やがて離農する福井の開拓地でも、離農後の弘前でも、父親は会社組織への就職を拒んだ。一家は貧しかった。蟻塚さんは20歳の頃、「生きることを肯定できない」時期もあった。
助けとなったのは、弘前で触れた津軽地方の文化だ。津軽は古代、大和朝廷の支配下に置かれていなかった。東北本来のものと思われる奔放さや、良い意味での〝社会秩序からのはみ出し者〟としての文化が感じられ、そこに生きる力を取り戻したという。
こうして蟻塚さんは、国策の問題や戦争被害に関心を寄せながら、精神科医として長く弘前市の病院に勤務する。
2004年、沖縄へ移住。診察を通して、沖縄戦による晩年発症型PTSD(心的外傷後ストレス障害)の存在を発見し、欧州の学会等で報告した。この晩年発症型PTSDとは、戦争から60年以上たってから、夜中に何度も目が覚めて眠れなくなるなどの症状が現れるPTSDだ。不眠を訴え、うつと診断されていた患者の多くが、実は戦争トラウマを抱える患者だった。
そして東日本大震災後、福島県相馬市へ移住。13年から、「メンタルクリニックなごみ」の院長として、原発事故によってPTSDを抱える人たちの診察を続けている。
「供給基地」であり続けた東北
蟻塚さんは、原発の問題は、東北の歴史にも起因していると指摘した。その例として取り上げたのは、戊辰(ぼしん)戦争(1868~69年)以来続く、「内国植民地」としての歴史だ。
例えば、会津若松市に藩庁を置いていた会津藩は、官軍(新政府軍)と旧幕府軍が戦った戊辰戦争で旧幕府軍に付き、敗北した。そのため会津藩は〝賊軍〟として政府から「差別」され、その後の復興において多大なハンデを負う。領地を没収された上、移住を許されたのは遠隔地の青森県下北半島の現・むつ市だった。斗南(となみ)藩の名で藩の再興を果たすが、藩民たちは厳しい財政状況と寒冷地の過酷な自然条件下で、塗炭の苦しみを味わうことになった。
蟻塚さんによれば、そこに見られる「中心」(勝者/権力者)と「周辺」(敗者/被支配者)による「植民地的従属関係」は、原発立地にも成り立っているという。政府や企業、都会などの「中心」に対し、食料や資源、兵士、労働力や電力などの「供給基地」となってきたのが「東北の150年」だったと説明した。
さらに、原発立地地域が抱える経済的な貧しさは、戦後開拓にも起因していると、蟻塚さんは指摘する。
日本政府は戦後、660万人の復員・引き揚げ者の人口問題や失業対策のため、5年間で100万戸の帰農を目指す開拓計画を実施した(戦後開拓は1975年に終了)。だが、開拓民に与えられたのは農家が耕作を放棄した農地に適さない土地ばかりで、入植者の生活は困窮した。計画は破綻し、その結果、複数の開拓地が原発立地となった。開拓地は人口が少なく地価が低い上に、既に〝開拓〟もなされていたためだ。
蟻塚さんは、元開拓地だった原発立地地域の例として、青森県の大間(おおま)町、東通(ひがしどおり)村、六ヶ所村のほか、福島県の浜通り地域など、全国各地の8地域を挙げた。
「心の〝もやもや〟が、ふに落ちた」
蟻塚さんはまた、沖縄と福島での臨床経験や、原発事故後に福島県双葉郡津島町から避難した住民500人を対象にした調査結果などから、「原発被災者の精神的な苦悩は、戦争被害に匹敵する」とも指摘した。
2011年の原発事故後、福島県大熊町から避難した馬場由佳子さん(49)は、会津若松市に暮らして9年になる。馬場さんはこれまでずっと、避難した住民の不安をよそに帰還政策を推し進める政府の強引さが理解できず悩んできたという。だが、「その原因が、蟻塚先生の言う『国内植民地』という意識から来ているのかと思うと、そこでやっと、ふに落ちたのです」と話した。
