希望をもたらした「蟻の町のマリア」 尊者・ 北原怜子(さとこ)帰天記念ミサ

 戦後の東京下町で貧しい人々の中に生き、「蟻(アリ)の町のマリア」として知られた尊者・北原怜子(さとこ)の帰天記念ミサと祈りの集いが1月25日、東京・江東区の潮見教会で行われた。同教会の信徒のほか、各地からの参加者合わせて約170人で聖堂は満席になった。
 
 ミサを主司式したアンドレア・レンボ補佐司教(東京教区)は、当日の福音に登場した「すぐに網を捨てて(主に)従った」弟子のように、怜子は主の呼びかけを感じたのだと話した。
 「それは特別な声ではなく、貧しい人々、忘れ去られた人々、苦しみの中にある人々との具体的な出会いでした。そこで彼女はキリストの呼びかけを聞いたのです」
 また怜子が「助ける人」としてではなく、「共に生きる人」として蟻の町に入ったことを取り上げ、特に若者たちに向けて、「他者に無関心でないこと、目をそらさないこと、出会いを大切にすること」を神は「必ず求めておられます」と語った。レンボ司教は潮見教会が若者たちにとって、「キリストに従うことは、真に生きることだと発見できる場」であるようにと、祈りを呼びかけた。

祭壇横に置かれた北原怜子(さとこ)の胸像

 北原怜子は1929(昭和4)年に東京で生まれ、20歳で受洗した。父は大学教授。「焼け跡の聖者」と呼ばれたゼノ・ゼブロフスキー修道士(コンベンツアル聖フランシスコ修道会)と出会い、廃品回収で生計を立てていた人々の生活共同体「蟻の町」で子どもたちの世話を担った。自身の慢心を見つめるなど回心を重ね、やがて町の一員となって廃品回収を始める。病により一時的に蟻の町を離れるが、最後には永住を選び、都に退去を迫られる町の人々と苦楽を共にした。都が蟻の町の要求を全面的に受け入れた数日後の58年1月23日、病床にあった怜子は28歳で亡くなった。
 生活の不安と恐れの中で心を閉じて生きていた人々が、怜子を通して信頼と希望を持ったことを奇跡と呼んだ蟻の町の人もいた。初めは怜子に懐疑的だった人の中からも入信する人たちが生まれた。現在の潮見教会は、そうした蟻の町の人々や怜子の願いにより、移転先の江東区に建てられた枝川教会(蟻の町教会)が前身となっている。怜子は2015年1月22日、前教皇フランシスコによって尊者に上げられた。

 ミサ後、主任司祭のラズーン・ノーサン・ビンセント神父(ミラノ外国宣教会)が主導して祈りの集いが行われた。初めに若者たち数人が、大きな木の十字架を祭壇前に運んだ。この十字架は、蟻の町が隅田川の河川敷付近にあった頃、強制退去を避ける方策の一つとして建物の屋根に立てられたものだが、移転後、正式に東京教区に所属した枝川教会でも屋根に据えられていた。

隅田川の河川敷付近にあった蟻の町から
受け継がれてきた十字架

 照明を落とし、フルートが演奏される中、参加者は静かに祈る時間を持った。最後にビンセント神父はこう語った。
 「聖性は毎日の小さな行いの中で、忍耐の中で、最後まで忠実であることの中で生きられます。彼女(怜子)は苦しくなった時も愛することをやめませんでした。それが私たちの模範になりました。この帰天記念日に彼女の生涯は私にこう問いかけます。神は、より深く愛するよう、私をどこへ招いておられるでしょうか」

 その後、潮見教会で元信徒会長を務めた今井湧一さんが怜子の生涯について話し、怜子がよくロザリオで祈ったことなど、同時代を生きた人々から聞いた貴重な話も伝えた。

 この日、清瀬市から参加した木野恵以子さんは91歳。朝7時半に家を出て教会の仲間と10時のミサに来た。「北原さんが大好きで、今日は本当に感動しました。自分を無にして周りの人に尽くされた北原さんの心を、少しでも私の心の中に頂けるように、一生懸命にお祈りしたいと思います」と笑顔で話した。
 兵庫県から参加した男性Mさんは、怜子について書かれた本を何冊も読んで信仰に導かれ、今年の復活祭に洗礼を受ける。「戦争や差別がまん延している今の世界の中で、主が怜子さんを通じて広げようとした純粋な心が、教会の外の世界まで広く伝わっていくように力を尽くしたいと思っています」と語った。
 山梨県から来た佐々木綾子さん(19)は洗礼を受けて2年。怜子について全く知らなかったが、たまたまこの日のチラシを見て、ネットで調べ参加した。「北原さんのような方がいらしたことを知ってとても感動しました。自分もこの方のようになりたいと思いました。レンボ司教様がおっしゃっていたように、(列福に向けて)一生懸命お祈りします」と話していた。
 (※「尊者」についての説明はこちら

潮見教会聖堂でささげられた北原怜子(さとこ/蟻〈アリ〉の町のマリア)帰天記念ミサ
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