心がつながる社会実現のために イエズス会社会司牧センター新春セミナー

 昨年10月、前教皇フランシスコの最後の回勅『主は私たちを愛された』の邦訳が出版された。同回勅で前教皇が説いたのは「イエスのみ心」への信心。それはどのようなものかを学ぶセミナーが1月22日、東京・千代田区の麴町教会・ヨセフホールで開かれた。講師を務めたのは同回勅を翻訳した増田健神父(クラレチアン宣教会/上智大学神学部講師)。25人余りが参加し、分かち合いの時も設けられた。麴町教会とイエズス会社会司牧センターが共催した。

 イエスのまなざしで見る

 増田神父は初めに、マルコ福音書でイエスが病気の人を癒やす場面(同3・1―5)を朗読した。イエスはこのとき、病気の人の苦しみに無関心で、かつその人を、イエスを陥れるための道具として見ていた人たちの「他者の苦しみを見ない心」に怒りを示す。
 増田神父はここに「イエス様の心の在り方が見えます」と指摘し、「私たちも人の苦しみを見ても泣けないような、かたくなな心になってしまっているかもしれません。私たちの心こそ、イエスのみ心に触れることによる癒やしが必要かもしれません」と語った。
 続けてこの回勅のテーマを説明した。前教皇フランシスコは、回勅『ラウダート・シ』では被造物を、回勅『兄弟の皆さん』では人類を大切にすることを訴えた。そして最後の回勅『主はわたしたちを愛された』のテーマは「イエスのみ心」だが、増田神父はこの三つの回勅には深い関連性があると、次のように説明した。
 「人間が自然を大切にできないのはなぜでしょうか。私たちの心が自然を支配しようとするからです。相手を兄弟姉妹として見ることができないのは、(私たちの)心にエゴがあるからです。根本にあるのは心なのです。だから(前教皇フランシスコは)心について考える必要がある、と回勅を出してくださったのです」
 同回勅にはサブタイトルがある。「イエスのみ心における人間的な愛と神的な愛について」。イエスは真の神であり人なので、神として人として人間を愛することができる。「私たちがイエスの心に触れることで神の愛に触れ、変えられていくのです。人間の心と心がつながる場所、それがイエスなのではないでしょうか」
 増田神父は「まずはキリストの愛に抱きしめられてください」、そして「イエスのまなざしで、自分自身と他の人を見つめましょう」と呼びかけた。増田神父は、自身の祈りの中でよくこう祈るという。「どうかイエス様、あなたのまなざしを貸してください」 
 相性が合わない人がいても、イエスのまなざしで見ることで、相手もイエスに愛されている存在だと思うことができれば、希望が生まれる、と増田神父は話した。

 心が変わらなければ社会は変わらない

 増田神父は、平和を保つためには勇気が必要だが、勇気は「私は神に大切にされている」という深い体験から生まれるとも指摘。
 イエスは目の前で苦しんでいる人を愛し、癒やしたが、現代の私たちは相手に触れる前に、知る前に相手を攻撃したり、拒絶したりすることがある。増田神父は再度「イエスのみ心に私たちの心が触れることによって私たち自身が変えられていくこと」の重要性を強調し、「社会は私たちの心で成り立っています。私たちの心が変わらなければ社会は変わらないのです」と話した。そして前教皇フランシスコが大切にしていた祈り「イエスよ、わたしたちの心をあなたのみ心に似たものとしてください」(同回勅168)を勧めた。 
 増田神父は「愛の実現のために、神は私たちに協力を求めています。(それは神が人間を)愛しているからです。『主の祈り』にはイエス様の夢が詰まっています」と述べ、教会がイエスの愛の鼓動を響かせる共同体になっていくよう願った。
 セミナーに参加した、上智大学大学院で神学を学んでいる吉野まほらさん(麴町教会)は、母親に誘われて参加。増田神父の話を聞き、「他者との関わりが薄れている現在、他者の存在をまず意識することが改めて大切だと思いました。自分自身のエゴを捨てること、他者をゆるすことは難しいけれど、難しいからやらないのではなく、お祈りや日常生活の中でイエスや神の存在を見いだすのを忘れないことが大切だと感じました」と感想を話した。

講演した増田健神父
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