今年は支倉(はせくら)常長らが慶長遣欧使節として仙台藩主・伊達政宗から欧州に派遣され、ローマ教皇・パウロ5世に謁見してから410周年に当たるとともに、カトリック教会にとっては25年に一度の聖年でもある。この二つの節目を記念し、慶長遣欧使節の歴史的意義や時代背景を知るためのシンポジウムが11月22日、仙台市の東北福祉大学仙台駅東口キャンパスで開かれた。オンラインでも同時配信され、320人余りが参加した。常長の子孫で14代目に当たる支倉正隆さんも来場した。
伊達政宗の「チャレンジ精神」
初めに宮城県石巻市の宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)館長で歴史学者の平川新(あらた)さんが基調報告し、慶長遣欧使節が派遣された背景を説明した。
1600年ごろの南蛮貿易は、九州(博多、平戸、府内など)や西日本(堺)を中心に行われていた。イエズス会が宣教した西日本にはキリシタン大名が多く、貿易船を誘致することができたからだ。平川さんは欧州の貿易船は、東国で地の利の良くない江戸や仙台には市場性を見いださなかったが、将軍・徳川家康は関東にも貿易船が来るようにしたいという望みを持っていたと解説。
一方、スペインの植民地だったフィリピンのマニラに拠点を置いていたフランシスコ会は、東日本を布教のターゲットにした。「貿易船を誘致したい」という家康の思惑と一致したフランスコ会の宣教師は、マニラと江戸や仙台、そして太平洋を隔てて、同じスペインの植民地だったメキシコを結ぶ貿易を勧めた。
1611年、家康はスペイン植民地政府(メキシコ)からの使節と交渉し、貿易に合意するものの、翌12年には合意を破棄。家康には、キリシタン大名への不信や日本征服計画への疑念があったとされる。またこの頃になると、オランダと英国という新たな貿易相手を確保できていたこともある。この2国はスペインとは違い、カトリックの布教を貿易の条件としなかった。「家康は貿易と禁教の間で揺れ動いていたのです」。この頃欧州では、カトリック(スペイン・ポルトガル)とプロテスタント(オランダ・英国)の対抗関係があり、それが日本にも波及していた、と平川さんは説明した。
そこでメキシコとの貿易について、スペインとの交渉を請け負ったのが、仙台藩主・伊達政宗だ。政宗は京都の伏見に10年ほど住んでいた時期があり、南蛮寺や南蛮文化に接触していたため海外に関心を持っていた。
慶長遣欧使節は1613年に日本を出発し、15年1月にスペイン国王に謁見。常長は翌2月に洗礼を受けている。洗礼式にはスペイン国王が臨席しているが、平川さんはその理由を、東洋から来た使節を厚遇することで、国内に東洋への影響力を示し、日本がキリスト教国になることへの期待を込めて、政宗に友好的なメッセージを発したのだと説明した。
しかし幕府は14年に禁教令を出していた。スペイン政府が出したメキシコ貿易の条件は「日本の将軍は禁教令を撤回すること」と「オランダ人を排除すること」。当時、オランダはスペインからの独立戦争中だった。常長にはこれらの条件についての決定権がなく、ひたすら貿易の許可を懇願するしかなかったという。政宗は常長が20年に帰国するのを待って、領内に禁教令を出した。
平川さんは、使節の派遣は政宗の強い要望と計画の下に進められたもの、いわば「チャレンジ精神」によるものであり、家康がメキシコ貿易を諦めたからではなかったと話した。
講演の最後に平川さんは「支倉都市同盟」について説明。スペインのコリア・デル・リオ市長が2017年に、慶長遣欧使節ゆかりの海外4カ国の自治体と宮城県をはじめとする日本国内の七つの自治体で、文化や観光・経済などの交流を深めることを目的とした同盟を結ぶことを提案した。今年6月には、宮城県知事とコリア・デル・リオ市長がオンライン会談で推進を合意している。平川さんは参加者らに支援を呼びかけた。
教皇レオ14世は「時代の申し子」
前・駐バチカン大使の千葉明さんは、バチカンと日本の外交の歴史と、現在のバチカンの外交姿勢を説明した。
バチカンは現在180カ国と外交関係にある。千葉さんは、バチカンの外交方針は神学に基づいており、その影響力は宗教間対話による和解の演出、核軍縮、開発援助、気候変動、AI倫理に関する呼びかけなどに及んでいることを解説した。
千葉さんは、「米国人は教皇にならない」という「ジンクス」は「東西冷戦」の考え方だと指摘。「キリスト教の考え方は共産主義と相いれない部分がありますので、教皇というのは必然的に西側(欧州)の人という風に見られているわけです」
しかし現在の世界の構図は、南北が軸で、しかも対立ではなくいかに北側の国が南側の国と融和を図るかが課題になっている。「その意味で、アメリカ出身でありながら長くペルーで過ごし、南北アメリカの橋渡しをしてきたレオ14世は『時代の申し子』」だと千葉さんは話した。そして教皇レオ14世と実際に会った時の印象を「我(エゴ)を感じさせない」人物だったと振り返った。
この他に藤川真由さん(明治大学特任准教授)は、慶長遣欧使節がローマに入った時に盛大なパレードが開かれたことを説明。イタリア学術会議・地中海ヨーロッパ史研究所主任研究員のアンジェロ・M・カッタネロさんはさまざまな古地図を示し、日本がどのように描かれていたのかを考察した。髙見三明名誉大司教(長崎教区)は、自身が常長と共にローマを訪れた松尾大源の子孫だと代々語り伝えられていることを紹介した。

