
2025年は、教会における信仰の源泉を見直すとともに現代化を目指した第2バチカン公会議の閉幕60周年を祝うときであり、325年のニケア公会議開催から数えて1700周年の記念のときでもあります。それ故、ニケア公会議を巡る背景・決議事項・展望を簡潔に紹介します。先人の志を引き継ぎ、温故知新の精神を大事にするためです。
1.ニケア公会議以前の背景 —— なぜ開催されたのでしょうか
ニケア公会議以前の教会共同体は混乱した状態でした。313年の皇帝コンスタンティヌスのミラノ勅令によって、ローマ帝国内でキリスト教迫害が終結しました。つまり、それまでは「皇帝崇拝を拒絶する無神論」と見なされていたキリスト教も、ローマの他宗教と同等の宗教として認定されました。こうして信仰を自由に保てる時代となりましたが、新たな問題が生じました。世俗化です。言わば「迫害に耐え抜き、純粋な信仰を保つ努力をする者」と「キリスト者の誠実な奉仕の働きを無料で利用することで帝国の発展を目指す皇帝親派の新興の政治勢力に肩入れする者」とが教会共同体内部で混ざりました。
その上、「人間の理解力を超えた秘義を尊重して生きる者(敬虔〈けいけん〉な者、畏敬の念によって信仰の次元を生きる者)」と「人間的な思考法によって何事も納得するまで知り尽くそうとする者(合理主義者)」とが思想上の綱引きを始めました。特に、イエス・キリストをどのように理解すべきかが問われました。神の御子イエスは神なのか人間なのか、御父と御子はどのように一致しているのか。その論争は熾烈(しれつ)を極め、教会共同体を激しく分裂させました。
アレクサンドリアの司祭のアリウスをはじめとする合理主義の立場の神学者は唯一の神を信じるイスラエルの民の信仰の伝統を引き継ぐ正統な共同体づくりを目指すために、御父だけを神として尊び、御子イエスの立場を格下げして「神に近い最高の被造物」として扱うことで、御父と御子とが同時に神として並び立つことの矛盾を解決しようと考えました。こうしてアリウスは御子を御父の下に配置しました(従属説)。
しかしアレクサンドリアのアレクサンドロス司教とその秘書の聖アタナシオをはじめとする正統教父たちは、敬虔な祈りに基づいてキリストの救いの働きに信頼することに重点を置き、人間の理性によっては究め尽くせない神の領域を尊重しました。人間の思考能力を生かして何でも理解し尽くせると豪語するばかりか、言語を用いて何でも断言できるという傲慢(ごうまん)な態度に溺れた神学者とは異なる道を選んだ教会の指導者が正統教父と呼ばれました。彼らは謙虚に神に感謝しつつ賛美の祈りをささげて、他者に奉仕し、必要以上に理性や言語によって物事の深層を詮索しない生き方(救済的な姿勢)を選びました。洗礼式やミサ聖祭の儀式や祝福の祈り、十字を切る動作などにおいて、御父・御子・聖霊に信頼してあらゆる人の救いを願う礼拝実践に参与するキリスト者は愛の実践に向けて派遣されましたので、理論よりも具体的に生きることの方が重視されています(正統信仰)。
2.ニケア公会議の内容 —— 何が決定されたのでしょうか
ニケア公会議は325年に開催されました。全教会で用いる共通の「信条」が決議され(ニケア信条)、御父と御子とが「同一本質」(ホモウーシオス)であることが確認されました。御父である神と御子イエス・キリストとが常に人間を救うために決して切り離し得ないほどに一致して、体当たりで働くことが明らかとなりました。御父の人類救済への意志は御子によってこそ完全に実現されることになるので、常に両者は一体化して相手を生かします。徹底的に相手の下(もと)にまでへりくだって、身を低くして、自分のいのちを余すところなくささげ尽くして他者を生かす愛を生き抜く御父と御子とは、ひとつながりの慈愛そのものとして決して分かたれることなく一致しています。この秘義は1世紀末に成立したヨハネ福音書で証しされましたが、325年のニケア公会議が開催されるに至って教会共同体の公的な立場として正式に認定されました。この公会議で「信条」が定められ、私たちが何を信じて生きるのかが明らかとなりました。「信条」とは、キリスト者が信ずべきポイントを過不足なくまとめた祈りの言葉です。
なお、この「ニケア信条」が381年の第1コンスタンチノープル公会議の際にナジアンズの聖グレゴリオ議長の下で再度改訂されてキリスト理解と聖霊理解とが洗練される文言として発展し、今日のミサの際の信仰宣言の祈り(「ニケア・コンスタンチノープル信条」)として教派の相違を超えた共通の遺産として受け継がれています。つまり56年かけて三位一体の神に信頼する信仰告白の土台が整いました。その際、ナジアンズの聖グレゴリオや聖大バジリオやニュッサの聖グレゴリオの尽力によって、自分たちが信じている事柄を味わって感謝と賛美をささげる「祈り」としての神学が営まれました。こうした教父たちの信念は「神の慈愛深い栄光に信頼して隣人の救済を第一とする思惟(しい)方法」(頌栄(しょうえい)的な救済主義)と呼べるでしょう。人間の思考能力の枠内で神を理解する姿勢を捨てて、決して自己満足せずに、むしろ三位一体の神への礼拝と愛の実践とを敬虔な姿勢で深めることで社会に救済をもたらすのが正統な信仰の型です。
3.ニケア公会議以後の展望 —— 私たちの生活とどのように関わるのでしょうか
「相手に対する熱烈な愛故に徹底的な無私の姿勢で自分のいのちそのものを贈る〈ケノーオー〉」。この〈ケノーオー〉(自分を空にする)という、神による愛の極意がフィリピ書やニケア公会議によって再確認されました。この極意を絶やさずに受け継ぐことが、ニケア公会議後の時代を生きる私たちの展望です。〈ケノーオー〉という秘義を伝授するには、いのちがけで目の前の大切な相手に生きる力を授ける必要があります。御父と御子と聖霊とが唯一の愛の働きとして自分を相手にささげ尽くすことは、筆者なりの造語では「三無一愛」です。自分を空にして(無にして)ささげ尽くすことで相手を生かす姿は、親の子育てとも共通します。今も毎週のミサで〈ケノーオー〉の原事実に信頼を寄せる告白を共同で表明する信仰宣言の祈りが続きます。相手を最優先して自分のいのちをささげ尽くして貧しくなることで、相手の貧しさを豊かで円満な状態へと転換させる積極的な支えの姿勢は、御父の思いを実現する御子イエス・キリストによる寛大で圧倒的な気前よさとして1世紀の信徒たちの自発的な「キリスト賛歌」を実らせ、使徒聖パウロにも影響を与えました(フィリピ2・6-11)。神のお取り計らいを完全で明確に体現して伝達したキリスト(救い主)としてのイエスの存在意義を今日も実感させるのがニケア公会議によって決議された「信条」という祈りの型です。この尊い祈りの型の秘義を2千年かけて伝授した生ける信仰共同体の努力を私たちも後進に託します。

