年間第27主日 10月5日 ルカ 17・5ー10 ましだと思っていた

 私は足が遅かった。クラスで2番目に遅かった。それ故にと言うべきか、運動会の日は朝から憂鬱であった。五島列島、玉之浦町が最もにぎわう秋の運動会で、町じゅうの人たちの声援を受けながら、後方を走るつらさといったらなかった。走る前から結果は分かっている。T君が最下位。私が最下位から2番目。ところが、6年生の運動会で私は最下位になってしまった。2人にとっては未来永劫不動の定位置と思われていた順位が、小学校最後の年に入れ替わったのである。遅いなりにも彼よりはましだと思っていたのだが、その彼にも負けてしまい、しばらく立ち直れなかった。
 「向こうにも意地がある」。夕食の時、父がぽつりと言った。向こうの意地だったにせよ、考えてみれば、T君がいることですっかり安心し、まさか追い抜かれることもあるまいと高をくくっていた私がよくないのである。

 ましだと思う中身が子ども時代の徒競走に関することであれば笑い話で済まされようが、信仰の話だったらどうなるだろう。信仰については、他人と比較して「存外、悪くないのでは」「ましなのでは」などと決して考えないようにという戒めが今日の福音の主眼である。「からし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木に向かって、海に根を下ろせといっても言うことを聞く」(ルカ17・6参照)とイエスは言う。これは、「わたしどもの信仰を増してください」(同17・5)と願った使徒たちに対するイエスの回答なのだが、「増してください」と訳されているギリシャ語の動詞プロスティテーミは、プロス(=加えて)とティテーミ(=置く)の合成語で、直訳すれば「付け加える」となる。つまり、使徒たちは十分ではないにせよ既に幾らかの信仰を持っていたと考えていた節があり、そうであればこそ、それに「付け加える」すべを尋ねもしたと思われる。しかし、イエスは「からし種一粒ほどの信仰があれば…」と語ることで、そうした使徒たちの信仰に関する自己評価を、恐らくはあまり好ましい考えではないという意味でやんわりと否定しておられる。

 徹底したへりくだりを教えたいというイエスの意向は今日の福音の後半にも受け継がれている。「命じられたことをみな果たしたら、私どもは取るに足りない僕ですと言いなさい」(同17・10参照)。ここで「取るに足りない」と訳されているギリシャ語の形容詞アクレイオスは、ア(=打消しの接頭辞)とクレイオス(=有益な)から成る合成語であるが、直訳すると「益をもたらさない」となる。務めを果たしても、自分は何の益ももたらさない人間であると認めることが肝要だとイエスは教える。信仰者にとっては、それなりにやっているとか、幾らかましだという考えが最も危険だとイエスは言いたかったのではないか。私たちの主は「死に至るまで、しかも十字架の死に至るまでへりくだられた」(フィリピ2・8参照)主なのである。
(熊川幸徳神父/サン・スルピス司祭会 カット/高崎紀子)

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