大分県臼杵(うすき)市内のカトリックの障害者施設で働く神田高士(かんだ・たかし)さん(60/臼杵教会)は、今年6月に洗礼を受けた。神田さんに影響を与え、洗礼に導いたのは母・稜子(りょうこ)さん(93/同教会)の信仰と、地元大分のキリシタン大名・大友宗麟(そうりん)の生き方だ。今年7月の大分地区殉教祭(→関連記事)でコーディネーターも務めた神田さんに、受洗までの道のりを聞いた。
信仰との出合いと別れー母の場合
神田さんと母・稜子さんは現在、一緒に臼杵教会に通っているが、それが実現したのはほんの4年前のこと。稜子さんは戦後14歳で洗礼を受けたものの、長い間教会に通うことができない事情があった。
戦後、稜子さんの家庭では、終戦により父親が仕事を失い、母親は病気で入院。当時、旧制女学校生だった稜子さんは、父親との暮らしに行き詰まり、家を出た。向かったのは大分県内のサレジアン・シスターズ(扶助者聖母会)の修道院だった。
神田さんは稜子さんからこんな思い出を聞かされている。稜子さんが幼い頃、大分県別府市内の公園に母親と一緒に散歩に出かけた時のことだ。
「幼稚園の子どもたちを連れて遠足に来ていたシスターたちが、子どもたちを優しくいとおしんでいる姿が(稜子さんの)印象に残っていたようです」
稜子さんは修道女になることを目指し、同会が運営する児童養護施設で働きながら勉強をしていたが、終生誓願を目前にして父親の介護のため、退会を余儀なくされた。退会する際、修道院長は稜子さんの将来を案じ、大学で教員免許を取ることを勧め、励まし続けてくれたのだという。
稜子さんは教員免許取得後、同会が当時運営していた学校で教職を務め、さらに臼杵市の公立中学校でも国語を教えた。後に神田さんの父親となる同僚と出会い、結婚するが、稜子さんは自分がカトリック信者であることを打ち明けられないでいた。
しかしある時、父親は稜子さんを知るカトリック信者の同僚から「あなたの奥さんはカトリックの信者なのに教会に来ないから、来るように言ってください」と言われた。
地元にはキリシタン迫害・殉教の歴史がある。神田さんは「実家が熱心な仏教信徒であった父親は、地元には『カトリック信者は異端』という印象が残されていると感じていたようです」と話す。
父親は稜子さんに「信仰を捨てるように」と告げた。稜子さんは黙って夫に従い、教会から離れた。
信仰との出合いー息子の場合
稜子さんの長男として臼杵市に生まれた神田さんは、カトリック幼稚園に通ったことはあるものの、稜子さんからカトリックの信仰について聞かされることはほとんどなかったという。
しかし18歳の時、稜子さんから「実は私は信仰を捨てていないの」と打ち明けられた。洗礼名はベルナデッタ・マリア。神田さんは進学で臼杵を発つ前に、フランスのルルドで無原罪の聖母出現を体験したベルナデッタに関する本を読んで、「カトリック信者は終生、信仰を棄てることはできないことを知りました」と振り返る。
神田さんは大学で考古学を学び、卒業後は臼杵市教育委員会に就職。発掘調査や文化財保存の仕事に携わっていた。仏教関係の調査が多かった神田さんに、転機が訪れたのは2008年のこと。長崎県が、キリシタン遺跡と長崎の教会群を世界文化遺産に登録しようという動きが始まった。その関連調査として、臼杵市の下藤(しもふじ)キリシタン墓地の調査が計画された。ここでは1956年に十字架を刻んだ墓碑が発見されており、99年には「INRI」(イエス・キリストの磔刑の十字架上に掲げられた罪状書きの頭文字)と刻まれた石造物の破片も発見されていたからだ。
神田さんが長崎県の担当者の助言を受けながら、下藤キリシタン墓地を発掘調査した結果、2013年までに66基のキリシタン墓が完全な形で姿を現した。これがきっかけとなり、神田さんはキリシタン史とカトリックの教義について学ぼうと決心した。一緒に発掘調査をした女性研究者からキリシタン史の基礎を教えてもらったことで、徐々にカトリックの信仰にそのものに関心を持つようになった。
母、教会に帰るー息子と共に
稜子さんの信仰を理解できなかった神田さんの父親は、2019年に他界した。その2年後、神田さんが稜子さんに、教会に戻りたいか聞いてみると、稜子さんははっきりと「戻りたい」と答え、戻ったら最初に「告解(ゆるしの秘跡)を受けたい」と語った。「おふくろは、(ゆるしの秘跡受けなければ)『このまま罪を背負って死ぬのだ』と、思い悩んでいたのだと思います」。
二人で臼杵教会を訪ね、稜子さんはゆるしの秘跡を受けた。「(司祭は)『ゆるす』とおっしゃって、(ゆるしの秘跡が終わると、これからは)『息子に(教会に)連れてきてもらいなさい』」と稜子さんに伝えたのだという。
そして稜子さんと教会に行くようになった神田さんも、「(いずれ)洗礼を受けることになるだろう」と感じていた。
地元大分のキリシタン大名、大友宗麟は21歳でイエズス会士・フランシスコ・ザビエルに出会い、領地内で教会を保護したが、受洗したのは家督を長男に譲った後、49歳の時だ。宗麟が受洗まで長い時間を要した理由を、神田さんはこう分析している。
「当時、この地域に暮らす人々は仏教や神道を大事にしていました。宗麟は、領主である自分が受洗すると(中立性を保つことが難しくなり)、この国をまとめることが難しくなると考えた、という本人の言行が記録されています」
公務員にも憲法で定める「信教の自由」は保障されているが、職務においては公平性や中立性を求められる。神田さんは、教育委員会での仕事では、特定の宗教を助長したり援助したりすることがないよう心掛け、宗麟に倣って在職中の受洗はしないと決めていた。やがて宗麟が亡くなった年齢である58歳に近づくと、神田さんは「自分も58歳で全てを捨て、受洗しよう」と決心し、58歳で退職した。
洗礼は、熊本県の真命山・諸宗教対話センターのフランコ・ソットコルノラ神父(聖ザべリオ宣教会)に授けてもらった。神田さんはその日、稜子さんの「涙を初めて見ました」。
教会から60年余り離れていた稜子さんが、心の中で温め続けた信仰が、神田さんに手渡された。そして、キリスト教を大切にした大友宗麟の生き方に引かれている自分がいる。神田さんは「神様は我々には計り知れないご計画を持っている」と感じ、今、母親と共に祈る日々が「平和と幸福の毎日」と語った。
