「十字架称賛」という祝日は、イエス・キリストがわたしたちの罪を取り除き、救いの恵みを得させるために、十字架に付けられ、高く上げられたことを祝う日です。ですから、キリストの十字架はわたしたちの救いを意味するものです。
今日の福音はヨハネ福音書3章に登場するイエス様とニコデモの対話の一部分です。この物語は他の福音書には登場しません。つまり、ここに用いられる多くの象徴はヨハネ福音書ならではの特徴であり、その一つが「持ち上げられる」ということです。
このため今日の福音は、旧約においてモーセが青銅で蛇を持ち上げたことを思い起こさせています。旧約におけるその物語は今日の第1朗読で読まれましたが、次の通りです。イスラエルの民は約束された地に向かっていく途中、耐え切れなくなって不平を言い出しました。すると、主は炎の蛇を送り、たくさんの人々が蛇にかまれて死んでしまいました。それを見て民は自分たちの罪に気付き、悔い改めてモーセに蛇を取り除くように願い、モーセは民のために主に祈りました。その時、神がお選びになった方法は願いの通りに蛇を取り除くのではなく、青銅で蛇を造り、旗竿の先に掲げることでした。そして蛇にかまれた時、その蛇を仰いだ人は命を得ることができたのです。
この物語が新約において再現されます。ところが、今回は青銅で造った蛇ではなく、生きておられる神ご自身が旗竿に掲げられます。この旗竿が十字架であり、死ぬ運命に置かれている人々はその十字架に付けられた神を見て信じることによって死なずに生きるということです。そのような意味で、イエス様は「人の子も上げられねばならない」と言われたのです。
ここで、わたしたちは「称賛」の意味に気付きます。「十字架称賛」と翻訳されたこの祝日のラテン語の名称は「Exaltatio Sanctae Crucis(エグザルタツィオ サンクテ クルーチス)」で、「称賛」と訳された「Exaltatio」の本来の意味は「持ち上げる」ことです。聖なる十字架をなぜ持ち上げるのでしょうか。旧約で蛇を掲げたことも、新約でイエス・キリストご自身が十字架に付けられて上げられたことも、結局人々が死に打ち勝ち、永遠の命を得るためです。そのため今日イエス様は最後にこう言われます。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3・17)。
従って、わたしたちが「称賛」する目的は、この「称賛」を通して人を生かすためです。そしてわたしたちが皆キリストのうちに永遠に生きるためでもあります。すなわち、生きるために、また人々を生かすために、そして永遠の命にあずかるために、わたしたちは「十字架を称賛する(持ち上げる)」のです。
(ダニエル・キム・ドンウク〈金桐旭〉神父/韓国殉教福者聖職修道会 カット/高崎紀子)
