教皇の一般謁見講話 神に向かう叫びは希望のしるし

【バチカン9月10日CNS】過酷な試練の時に神に向かって叫ぶことは、信仰の危機ではなく、自分を全く明け渡し、神への信頼を貫く覚悟の表れだ、と教皇レオ14世は説く。
 「人生の旅路の中では、何もかも心の内に納めることで徐々に疲れ果ててしまうことがあります」と教皇は9月10日、バチカンのサンピエトロ広場で開いた一般謁見で、傘を差すか雨具を使っていた数千人の巡礼者や来訪者たちに語った。
 「イエスは私たちに、それが誠実に、へりくだって、御父に向けられるなら、叫びを上げることを恐れないようにと教えておられます」と教皇は強調する。
 「叫びは愛から生まれるのであれば、決して無駄にはなりません。そして神に届くなら、決して無視されることはありません」と教皇は続ける。「それは不信感に陥らずに、別の世界があり得ることを信じ続けるための道なのです」

 叫ぶことは「極限の祈りの形」
 
 教皇レオ14世は一般謁見で、イエスの最後の日々を記す福音箇所に希望を見いだす講話を続けている。今回は十字架上のキリストの神に向けた叫びと死について話した。
 教皇は説明する。イエスは十字架上で叫びを上げる前に、およそ声に出せるものの中でも「最も胸が張り裂けるような」問いを発する。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15・34)
 「御父との親密な交わりのうちに絶えず生きておられた御子が、今は沈黙と不在と深淵を体験されます。それは信仰の危機などではなく、最後まで与え尽くされる愛の最終段階なのです」と教皇は説く。「イエスの叫びは絶望ではなく、誠実なもので、極限にまで至る真理であり、たとえ全てが沈黙のうちにあっても貫かれる信頼を表しています」
 「私たちは叫び声を上げるのは何か見苦しいことで、抑えなければいけないことのように考えがちです」と教皇は続ける。しかし「福音は私たちの叫びに大きな価値を与えます。叫びは嘆願や抗議、望みや自分を明け渡すことになり得ることを教えているのです。さらには、どんな言葉も残されていない時に、極限の祈りの形とさえなります」。
 叫びを上げることは「決して諦められない希望」を表すこともできる、と教皇は指摘する。「叫びを上げるのは、誰か聞いてくれる人がまだいるかもしれないと信じているからです」

 本物の叫びは「希望の源となる」
 
 「イエスが叫んだ相手は御父ではなく、ご自身だったのです。沈黙のうちにあっても、イエスは御父がそこにおられることを確信していました」と教皇レオはさらに説明を続ける。「そして、こうすることで、イエスは私たちに、たとえ全てが失われたように思えても、希望の叫びを上げられることを教えておられます」
 「私たちは泣き叫びながら、この世に生まれてきます。それも生き残るための手段なのです。人は苦しい時に叫びを上げますが、愛する時、人を呼ぶ時、助けを求める時にも叫びます。叫ぶことは自分が誰なのかを伝えることで、沈黙のうちに消え去りたくないこと、まだ言いたいことがあると示すことでもあります」
 教皇は呼びかける。「過酷な試練が訪れる時にこそ、希望の叫びを上げるすべを学びましょう。それは誰かを傷つけるためではなく、私たち自身を相手に委ねるため、私たちの心を開くためです」
 「私たちの叫びが本物なら、新しい光、そして新しく生まれることへの始まりを告げることもできます」と教皇レオ14世はさらに付け加える。「それが神の子どもたちの信頼と自由と共に示されるなら、私たち人類の苦しみの声はキリストの声と一致して、私たちと周りの人たちにとっての希望の源となります」

9月10日、雨の中、バチカンのサンピエトロ広場で開いた一般謁見の前に、広場に集まった人々にあいさつして回る教皇レオ14世(CNS photo/Lola Gomez)
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