イエス様がお生まれになった時、天使たちは「地に平和 神がお喜びになる人々に」と声高らかに歌いました(ルカ2・14参照)。
今、世界は「息子や娘、嫁が父や母、しゅうとめたちに逆らう」(ミカ7・6参照)とあるように、神様を忘れ、人が互いに恐れ合い、争うことをやめず、一致することができない現実に直面しています。
イエス様は「受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」と言われます。その洗礼とは、人々の争いの中で板挟みになって苦しめられている人と共に圧迫され、締め付けられるものです。
イエス様はさらに、父や母、しゅうとめたちが息子や娘、嫁に逆らうことについても言及されます。より弱い立場の人々へ逆らってはいけないこと、やさしい配慮、寄り添うことの大切さを教えられます。わたしたちが普段の生活の中で、孤独(寄り添いのなさ)を感じる時も、私たちは平和ではありません。イエス様はわたしたちの日常の苦しみもご自分の苦しみとして受け止め、寄り添ってくださいます。
また、イエス様はわたしたちの中に、火が燃えていることをお望みです。その火はわたしたちの中にある不純なもの、いらないものを全て燃やし尽くす火です。人を傷つけるあらゆるもの、武器だけでなく、人を攻撃する心を焼き尽くします。「武装することではなく、武装を解く平和を」と、新しいパパ様レオ14世もわたしたちに教えてくださっています。
第1朗読で、人々のために神様のことばを伝えたエレミヤは、「この民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいる」(エレミヤ38・4)と誤解されます。
「地に平和(仲良くすること、安全、無事、健康)を与えるためにわたしが来たと、あなたがたは思うのか。そうではない、わたしは言う。むしろ分かれ争い(部分に分ける、分配、分け与える、分割、分裂)をあなたがたに」(ルカ12・51参照)は、イエス様が分裂をもたらすかのように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。
わたしたちのイエス様はご自分の平和を顧みず、人々の苦しみに寄り添い、人々のためにご自分の全てを与え尽くすキリストです。
イエス様は「私がいつも一緒だよ。あなたたちも人々に寄り添いなさい」と声を掛けてくださっています。
「常に平和を追求し、常に愛を求めて、人々に寄り添うこと、特に苦しんでいる人に寄り添うことを願う教会です」(5月8日、最初の「ウルビ・エト・オルビ」の祝福における教皇レオ14世のことば:カトリックジャパンダイジェスト5月号2面から)
(寺浜亮司神父/福岡教区 カット/高崎紀子)
