今日わたしたちは、イエス様からちょっと厳しい警告を聞いています。今日の福音は、特にわたしにとって怠惰になったり、自分のやるべきことを真面目にしなかったりする時、心を引き締めてくれる言葉です。今日の福音のメッセージをまとめると、主人が来るまで主人の考え通りに忠実に働き、準備していなさいということです。しかし、イエス様の話はこれで終わりではありません。「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる」。さらに、こう言われます。「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」
この言葉を理解するためには、まずわたしたちが主の思い、つまり主のみ心をどのくらい知っているのかを反省しなければなりません。もちろん、普遍的な主のみ心は信仰のうちにわたしたちがよく知っているものです。わたしたちが主の道をそれることを望まれず、全ての人が救われるのを望んでおられる創造主のみ心、いつもわたしたちと共におられ、想像できないほどわたしたちを愛しておられる神のみ心をわたしたちは知っています。それ故、究極の主の思いは、わたしたち皆がイエス・キリストによってご自分と共に永遠に生きることなのです。
ところで、ここで言われる主の思いは、そのような普遍的なものではなく、わたしたち自身に望まれる神のみ心です。すなわち、神がわたし自身に任せられたことと、自分がどのように生きるべきかについて悟らなければならないということです。
わたしたちはいつもどうすればいいのか、何をしなければならないのか悩み、主にお尋ねします。実にわたしたちは主から多く頂いている者です。あるとき、わたしたちは頂いた全ての物によって傲慢になる自分自身に気付き、その頂いた全てを隠しておこうとしたこともあります。しかし、わたしたちが神から何を頂いたのかにはっきり気付いたら、頂いた能力、才能を隠しておくことを神は望まれないことが分かるのです。
わたしたちが神から頂いたもの、そして神がわたしたちに任せられたことを見ると、その中に神のお望み、つまり、「主の思い」が隠されているのが分かります。そのようなものを頂いたのが分かったのに、主の思い通りに活用したり、準備したりしないなら、今日の福音の言葉通りにわたしたちは主にひどく鞭打たれることになるでしょう。従って、わたしたちは与えられた才能のみならず、自分の人生のあらゆる出来事や経験から主の思いを見いだしていなければなりません。ただし、今分かっていない、気付いていないからといって絶望する必要はありません。わたしたちが祈りを手放さない限り、神はご自分のお定めになる時、わたしたちが何をするべきかについて教えてくださり、導いてくださるからです。主に信頼を置き、諦めることなくこの道を進んでいくことに致しましょう。
(ダニエル・キム・ドンウク〈金桐旭〉神父/韓国殉教福者聖職修道会 カット/高崎紀子)
