年間第18主日 8月3日 ルカ 12・13ー21 188カ所巡り?

 先日、ETV特集を見た。「密着 ひきこもり遍路~自分を探す二百万歩~」。ひきこもりで苦しむ5人の若者が地元の支援者と共に四国八十八カ所を巡る2カ月間にNHKが密着した記録番組である。日々出合う困難を若者たちが懸命に乗り越えて成長していく姿に、テレビの前の私も思わず胸が熱くなった。
 今日ご紹介したかったのは番組の「主人公たち」というよりも、道中彼らが出会った一人の青年のことである。仮にA君としておく。A君は静岡出身でなんと静岡から四国まで歩いて来たのだという。その上でさらにお遍路を旅しているのだ。聞けば交際していた女性と数カ月前に別れたとのこと。女性に病気が見つかり医者が言うには余命3年。宣告を受けた後も青年は女性と会い続けるのだが、会うたびに涙があふれて止まらない。女性の方としてみれば好きな人と会うのはうれしいが、会うたびに泣かれてはたまらないとついに別れ話を切り出す。A君はショックを受けるが最後はそれを受け入れる。そして、これを機に自分の何かを変えたくて限界まで歩こうと決意する。その旅の途中、ひきこもりで苦しむ5人の若者と遭遇するのである。
 私が本当に紹介したかったのはこの時A君が5人に語った言葉である。「今日一日ご飯が食べられたらそれでいい。もう、生きていること以外は全部手放そうと思った。生きていることだけを残して後は全部捨てよう。そう考えたら自分が多くの欲に取り付かれていることが分かった」。目を輝かせながら語る青年の言葉がいつまでも消えずに残った。
 今日の福音もまさにこうした欲とわれわれがどう向き合うかがテーマになっている。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」(ルカ12・15)とイエスは言う。この言葉の意味についてはもはや説明を必要としないであろう。問題はこれをどう生きるかである。実際、欲をどう手放せばいいのだろう。テレビを通して青年たちを応援していたせいか、考えることをいったんやめて歩きたくなった。困難に直面した時、あるいは人生の岐路に立たされた時、人は無心に歩いてみたいと思うのかもしれない。
 そこで皆様にお願いしたいのは、これから書く事は田舎司祭の独り言だと思って片目を、いやできれば両目をつぶっていただきたいということである。日本に全国の教会を歩いて巡る公式の巡礼路をつくってはどうだろう。欧州にはサンティアゴ・デ・コンポステラがあり、日本仏教には先の四国八十八カ所がある。今まさに「希望の巡礼者」をテーマに聖年を過ごしている最中である。日本にもそうした人々を受け入れるキリスト教の巡礼路が整備されたらどんなにいいだろうと思う。札所の数は188。ペトロ岐部と187殉教者に由来する数だが、札所になる教会は殉教者にゆかりがあってもなくても構わない。仏教に四国八十八カ所、キリスト教に188カ所、悪くないと思うのだが。
(熊川幸徳神父/サン・スルピス司祭会 カット/高崎紀子)

  • URLをコピーしました!
目次